「ものづくりと私の人生 技術と経営理念の伝承」(2010/9/8開催)
もともと父親が経営していた自動車部品工場を手伝っていた辻谷さんは、ある日「自動車産業の下請けはもうだめだ…」と思い、独立を考えました。最初は「アウトドアブーム」がくる、との先見から“テント作り”を始め、見事にヒット。しかし大手が参入し、太刀打ちできないと判断し、テント作りをやめざるを得ませんでした。 その後も、数多くのヒット作を世に生み出すも、ことごとく大手参入により断念させられました。「予想は当たるが、大手企業には勝てない…」。そう考えているときに、陸上競技で使うハードル作りの仕事が舞い込んできました。その後は本格的に陸上競技用の用具を生産するようになり、ついに辻谷さんの人生を変えた“砲丸作り”と出会います。 当時の砲丸は粗雑で、ただの鉄の塊でしかなく、規格も甘く、十分に改良の余地が残されていました。夢と探究心を持ち続けることの大切さ、妥協を許さぬ職人気質、技術や経営理念をいかに伝承するのか、について講演します。
本文の後ろに添付資料がございます。印刷してご利用ください。
では、始めさせていただきます。私は、今目の前に座っていらっしゃる方々のような立派な人ではなく、小さな町工場の職工です。ですから大学の先生などとは違って話をするのは得意ではありません。どうぞその点は勘弁してください。
まず、今の社会情勢から少しお話したいのですが、不景気で困っていらっしゃる中小企業の方々は沢山いらっしゃいます。私の友人に言わせますと、私の会社はこの不景気にのんびりした顔をして仕事をしているそうですが、私は以前から、不景気になってから何か考えたのでは間に合わない、そういう考えで物事を進めています。

私が小学校を卒業したのは昭和20年の震災の年です。父親の会社は日産の下請けをやっていたのですが、ご存じの通り日本の主要都市は皆丸焼けです。
私の父親の会社も丸焼けで、焼けた材料を拾い集めて工場を立て直して始めました。小学校を卒業して中学校へ行こうにも、中学校は焼けてしまってありませんでした。仕方がないので16歳の時まで父親の仕事を手伝って、それから定時制の工業高校へ入学しました。定時制は4年です。
20歳で卒業した時に、仲の良い友達が私を含めて6人いました。その後しばらく父親の仕事を手伝っていたのですが、昭和30年頃になって、ご年配の方は記憶にあると思いますが「時短」という言葉が入ってきました。「時短」というのは操業時間短縮のことです。
そこで、仲のいい連中が集まって、少し余裕のできた時間を何に使うかという話題になりました。レジャーか、スポーツかという結論が出ました。私ともう一人は、自分で何かそういうものを作ったら良いのではないかという事で、残りの4人は勤めていた日立製作所を全員が翌年になんと辞めてしまいました。
大工場では俺達は歯車かネジの一本としてしか認められない、これから伸びるのは旅行会社だと、大手の阪急交通社、近畿日本ツーリストなどに全員転職しました。今と違って当時は旅行会社への就職は簡単でした。みんな規模が小さいし、海外旅行など、日本ではまだまだ夢の時代です。国内旅行をちょこちょこあっせんしている状態の会社でした。そして皆さん、幹部までに上り詰め定年まで頑張って退職金をたくさんもらってのんびりと暮しています。
私ともう一人は、これからはレジャーかスポーツだという事で、私は最初に登山用のテントを作り始めました。どうしてテントだったかというと、アメリカの月刊誌で「リーダーズ・ダイジェスト」という本がありました。
その当時は英語版と日本語版と両方あり、日本語版を買ってきて見たところ、アメリカではキャンプが流行り、バーベキューをやったりアウトドアブームが起きていました。まだ日本にはそんなものはない頃です。日本もいずれこうなるだろうと、キャンプ用のテントを作り始めました。これは3~4年はかなり儲かりました。儲かったのですが、売れ始めると大手が出てくるのです。東洋レーヨンですとか、大きな繊維会社が出てくると、我々のような小さな会社はとてもじゃないけれど太刀打ちできません。それからすぐに手を引いて何をやろうかと考えました。
アメリカではゴルフブームでした。日本ではゴルフといえばお金持ちのお遊びの時代でした。これからゴルフブームが来るだろうかと、私はゴルフのアイアンを作り始めました。これも2~3年はかなり儲かりました。けれどもご存じのように現在もゴルフのメーカーは沢山あります。そして、これもすぐに撤退して、その後スキーのストック、テニスのラケット。テニスのラケットは、昔は木の枠でした。それを私はスチールで拵えましたが、1年で駄目になりました。せっかく軌道に乗ったところにカーボンが出てきたのです。カーボンになると我々鉄鋼関係には手が出ません。
そして、次に何をやろうかと言っているところに、昭和39年の東京オリンピックがありました。ハードル競技のハードルを作る会社が当時は日本に2社ありました。どちらの会社のハードルを東京オリンピックで使うか厳密に審査され、当然1社が落とされます。落ちた方の会社の社長さんがお見えになって、悔しくてしょうがないので相手の会社よりも優秀なハードルを作ってくれないかという依頼をされました。そして、1年がかりで設計し、高さを調節すれば勝手におもりが動いてバランスを取るハードルを作りました。
今はそのハードルは全国の90%以上の陸上競技場で使われています。それが軌道に乗ったのは昭和44~45年です。そして、それだけのものが作れるのならば砲丸を研究してくれないかと言われたのが砲丸を作るきっかけでした。
先ほどのお話の続きになりますが、私は最初は操業時間短縮のためにスポーツ関係に進んだのですが、今から40年近く前には少子高齢化という言葉が出てきました。この少子高齢化という言葉を聞いて、今やっている仕事は下火になるとはっきりと分かりました。
私が思った通り、スポーツ関係の仕事は以前の半分以下です。儲かっていた時代には会社に余裕がありました。ここで何か立ちあげておかないと将来辛い思いをしなければならないと、私はスポーツ関係の機材のレンタル会社を立ち上げました。今から35年前くらいの話です。

最初はマラソン大会の機材でした。スポンサーの横断幕を張るCMとか、選手がゴールするときのゴールゲートなどをステンレスで作りましてマラソン大会にレンタルを始めました。そして、今から30年前に日本でトライアスロンが始まりました。すると自転車をかけるバイクタックなどの機材も必要で、大体一億二千万円くらいの費用をかけてそれらを拵えました。現在日本中の大会、120~130大会が私の工場の機材を使ってくれています。
私には子供が6人います。息子が3人と娘が3人です。長男、次男には現在レンタル会社の方を任せています。そちらの方は今右肩上がりです。私と、映像でご覧頂いたとおりあの息子は三男です。本社の方は右肩下がりです。30年以上前に立ちあげたその1社はかなり調子が良いということになります。
ですから、その時代、その時代に出てくる言葉をヒントにすると、今やっている仕事が将来どうなるか、これから何をやったらいいのか、ある程度わかってきます。そして、今社会的に使われているキーワードは安心、安全です。
この言葉が出てきたときに一つ考えたことがあります。目の不自由な方の杖がありますが、その杖の下に小さなキャスターを付けて、一歩一歩ではなく地面を転がして歩けば地面の状態がよく分かります。これを今から10年くらい前に作ろうと思ったのですが、私の友人が暇でしょうがないから仕事をくれと言いまして、やってみないかと提案しました。
日本全国に目の見えない方の団体が10ヶ所くらいあります。東京には本部があり、そこでは目の不自由な方の団体の住所が分かります。最初、友人は350本位作って、1ヶ所に2~3本を無償で提供しました。
私は当初は2年や3年で儲かるとは思わずにその仕事を渡したのですが、目の不自由な方へのアンケートを付けて配ったところ回収率はなんと96%でした。皆さん喜んで使ってくれたのだと思います。今、東京の新宿や秋葉原などでは、目の不自由な方がコロコロ杖を転がしている姿をかなり見かけます。
そして、アンケートの中に、その小さな杖先の上にセンサーを付けてもらうと随分と助かるという声が十数件もありました。センサーは、50cmくらい前に障害物があるときに、前の場合はピーとか、横のときはブーとか音が出るものです。
私がこれに気付いたのは、新宿駅で目の不自由な方が電車のホームを歩いているところを見たときです。ホームはかまぼこ型になっている所が多いのです。普通に歩いていても低い方に寄っていくので危なくて後ろから抱えたことがあるのです。これは杖ではなく車輪を付けた方がいいというのがヒントになりました。
ですから、金儲けのヒントは考えてばかりいるのではなく実際に自分が街を歩いている時、どうなっているのか、皆さんどんな風に歩いているのか、何を考えているのかをヒントにすると、これから先作るものが増えてくると私は感じました。
これからは大きな所を狙うよりも一点集中主義にして小さなターゲットで物造りをするとまだまだ作るものはあるのではないかと思います。これは前置きなのですが、先ほどの続きになりますが、私が砲丸を作り始めたころ、日本陸連の規格で、ここに置いてある砲丸は7260gあるのですが、この重さよりも軽くなければならず、50gでも100gでも重いものは全て不合格品でした。
ですから、ご覧頂いたように私の会社にはNCと名のつく機械は一台もありません。NCを入れなかったのには訳があります。私の友人達はNCだ、自動機だと言ってどんどん設備を入れて、今その技術で苦しんでいる状況です。私はNC化しなくて良かったと思いましたが、まだNC加工しなくても汎用機械で作る品物は沢山あります。その一つがこの砲丸だったのです。
最初ははっきり言って、いい加減な砲丸です。100g、どうでもいいといった感じで気楽に作っていました。ところが1980年の始めに、そんないい加減な砲丸では外国から選手を招待して国際試合をするときにみっともないと、日本も国際規格を採用することになりました。国際規格になりますと、7260gに対して+5gから+25g、なんとその間が20gに縮まってしまったのです。それからは砲丸との戦いになったのですが、今まで100gくらいどうでもいいと言っていたのに僅か20gです。

今日は工場関係の方も大勢いらっしゃるという話を先ほど伺いましたが7200分の20といいますとかなりの精密仕事です。ですが寸法的な精密仕事は、私達は怖くはありません。測定器もしっかりしています。ところが、目方の100分台になりますと至難の業でした。いちいち外してみないと分からない。そして、映像でご覧頂いたように、両脇にボス(突起)が出ています。それを切り落としたときに目方が出ているか出ていないかという難しい問題もありました。
皆さんもそうだと思いますが、私達職人は、100個作るときに、まず10個を精密に作ってそのデータを全部控えて、合計の平均値で加工マニュアルを作ります。その加工マニュアルを使って残りの90個を作ったところ、なんと20個~30個は目方の不良品でした。これはデータの取り方、マニュアルの作り方を間違ったのかと思い、一年間くらいそれを続けたのですがどうしても上手くいかないのです。
皆さんご存じのように、今加工の主流はNC旋盤です。機械関係の方はお分かりにならないと思いますが、NC旋盤というのは数値制御で、コンピュータが機械を動かして盤付けする機械です。パネル盤を操作すれば機械が勝手に削ってくれます。これがNC加工なのですが、NC加工で作らなければ上手くいかないかなと思いました。私の友人達は皆持っています。
そして、1年くらい経ったけれどもどうしても上手くいかないので、友人の所2軒に100個ずつ頼んでみました。1か月くらい経って出来てきました。NCですから綺麗に丸くなっています。ところが、目方を測ったところ70%以上が不良品でした。なんでこんな事が起きるのだろう、おそらくNCではなく自分で作った方がまだ気が利いているのではないかと思って、それから半年くらい研究していました。
しかし、どうしても上手く出来ない。私達職人というのは、上手くいかない時は原点に返ってまた作り直すのですが、原点に返っても上手くいかない。
では、原点の原点はなんだろうと思った時に、これは材料にあるのではないかと思いました。鉄の鋳物というのは非常に不純物が多いので加工しにくい材料というのは昔から知っていました。では、鋳物屋さんに行って少し勉強しないとまずいということで、私は1年半鋳物屋さんに通って木型から砂型に取って最初から教えてもらいました。
鋳物というものをご存じの皆さんもいらっしゃると思いますけれど、鉄の元素記号はFEといいますよね。鋳物の場合にはFCとなります。この砲丸はFC200という材質で、鉄FEの中に鋳物の5元素であるカーボン、シリコン、マンガン、硫黄、リンの5つが入るのです。ですから、材質としてはかなり複雑な状態です。
DVDでもご覧頂いたように空気の泡というのが出てきました。細かく説明すると素人の方には分かりにくいので空気の泡としたのですが、水と油のように、比重の軽いものは当然上にあります。
そして、どうしても重心の位置が隠れています。それにも気付かずに加工していたものですから、上手く出来なかったのです。それから約1年間、鋳物屋さんで研究して分かったのは、なんと鉄の鋳物というのは春夏秋冬と入梅時期で大きさが違うという事です。
今のように夏ですと、今日の夕方までに鋳造した品物は、明日の朝まで、まだ300度から400度、とても触れる状態ではありません。冬ですと、氷の張るようなときもあります。ですから今日鋳造した品物は明日の朝までに冷たくなっています。1日で冷たくなるか、2日がかりで冷たくなるかによって当然大きさが変わってきます。密度も変わってきます。今月作ったマニュアルが来月通用しないというのは冷却速度の違いが大きさに影響していたということがやっと分かりました。
NCも駄目、自分で作ったマニュアルも駄目ならば勘でやるしかありません。私は、大勢の勘で物を作る職人さんを知っています。機械関係の方はお分かりと思うのですが、ジョウガンというものがあります。大きさは色々あります。そのジョウガンを平らに削って、表面を研磨して、本当に平らになっているかどうかという最後のテストは職人が手でやっているのです。
私が行った時ちょうどテストをしている時でした。掌で平らな所を撫でてみて、「あれ、100分の1くらい高い。削りそこなっているよ」と言うのです。「いくらなんでも掌で100分の1が分かるわけないじゃない」と言ったところ、「いや、絶対ここは高いから」と。機械関係の方はお分かりになると思いますが、ダイヤルゲージという、100分の1の目盛のついたゲージがあります。それを滑らせてみたところ、ここが高いと言われたところは確かに目盛が一つ動きました。そこをまた真っ平らに仕上げます。
「こういうことができるのなら、自分でも勘でできるのではないか」と思いまして、一切のマニュアルを破棄して勘で削るようにしました。勘というのは、先ほど映像でも一つ映りましたが、削る時の音と削った跡の色です。固い物を削った跡は光っていますし、柔らかい物を削った跡は鈍い色をしています。
そして一番肝心なのは、映像でご覧頂いたように両手で持って削っている事です。汎用機械ですから両手に伝わってくるハンドルの圧力です。固い物を削る時には足を半分開いて腰に力を入れて手で削らないと上手く削れないし、柔らかい物ですと簡単に削れます。音と光と、手に感じる圧力。職人というのは大体において手はごついです。固い物を持ったりおろしたりしていますから。
手の皮が厚いとハンドルから伝わってくる感じが鈍いので、女房が使っている角質を防ぐ尿素が20%入ったゼリアというクリームがあります。それを借りて最初の頃は毎日、毎日、風呂からあがって擦り込んで、寝る前には手袋をして寝るようにしたところ、なんと1か月も経つと手の皮が柔らかくなりました。今でも握手をすると、「あれ、これ職人の手じゃないね」と言われるくらい、1週間に2日から3日くらいは手のケアはしています。
ですから、上手くできなかった場合は自分の体を機械に合わせる、品物に合わせるということをすれば、人の感覚というのはものすごく鋭くすることができます。この黒っぽくみえるのはアトランタの時にメダルを獲得した砲丸なのですが、細かい筋が入っています。筋というのは、一体どのくらいで入っているのか、私は爪でテストをしています。ですから、いつでも小指の爪と親指の爪だけは伸ばしているのです。身体をセンサーにして品物を作っている。また、身体を機械に合わせて品物を作る。こういうことまでやれば、誰でも上手くこの品物を作ることができます。
最初に、この品物であればオリンピックで使えると思ったのは1986年です。そして、86年のソウルオリンピックに出そうと思いました。良い物ができたからといっても、いきなりオリンピックに提出できません。
国際陸上競技連盟の事務所は地中海に面した小さなモナコにあります。自動車レースで有名な国ですよね。そこへ2個送って審査してもらうわけです。これだけの物が出来たので審査をしてくださいと2個送りました。オリンピックの2年前ですから世界中から、うちの国のものを、うちの会社のものを使ってくれと20件から30件くらいモナコに提出されます。どんな検査をするのか、私はモナコまで飛んで行って審査の状態を見てみました。
審査員は5人並んでいました。最初の2人が直径を縦・横・斜めに測ります。真円度が1ミリの半分、0.5以内。そして、2人の審査が終わって次の2人が目方をはかっています。先ほどご説明した+5から+25以内にできているかどうか。そして一番最後の審査では中心を見るのです。真っ平らな台の上に載せて、重心がちょっとでも狂っていると、起きあがり小法師のようにコロンと転がります。転がる具合を審査しているわけです。そして、転がる検査の所へ私達が回った時に、審査員が縦横斜めに置いて首をかしげています。他の審査員も呼び寄せて皆で転がしている訳です。
どの状態で置いても私どもの砲丸が転がらないので皆が首をかしげています。私の後ろに通訳がいましたので、「何かまずいことがあったんじゃないか、ちょっと聞いてみてよ」と、聞きに行ったところ審査員が、「今までオリンピックの度に砲丸の審査をしているけれど、全く台の上でびくともしない砲丸、こんなの初めて見た。こういうものが果たしてできるのだろうか。」そう疑われて、さかんに検査していたのです。お陰さまで、25カ国くらいの砲丸が検査されたのですが、私の砲丸が最初に合格しました。私は喜んで、これならばソウルオリンピックへ提出して良い結果が出るのではないかと思いまして、32個をソウルに送ったのは良いのですが、砲丸投げの競技というのは世界的に見てもファンが少ないのです。ですからテレビでは放映されなかったのですが、ご存じの通りオリンピックの決勝戦は後からDVDやビデオになって販売されます。その当時はDVDよりもビデオテープが主流でしたからテープを買ってきて見た所、なんと私の砲丸を使ってくれた選手は一人もいませんでした。
「あれ、せっかく審査では世界一の折り紙が付いたのに、なんで誰も使ってくれなかったんだろう」と。私の所には新聞記者とかスポーツ関係者が時々お見えになるので「一体どういうわけで使われなかったのか、誰か原因わかる?」と聞いてみたところ、オリンピックの砲丸投げの選手は非常に寿命が長いのです。ですから、3大会、4大会、長い人は5大会も出てくるので、どうしても前の大会に出た時の色の砲丸を使いたがるのです。これがどうしても人間の心理でしょうがないのでしょうと教えてくれました。次のオリンピックはスペインのバルセロナです。審査にまた提出してくださいと案内が来ましたが、同じものを提出したらまた完敗です。どうしようと考えました。
その時に私が作ったのが、少し黒っぽく見える砲丸、これには細かい筋が入っています。この筋の元になったのは、指紋です。第一関節から上といえば、殆ど渦を巻いています。第二関節、第三関節においては横に入っている人は殆どいません。そして掌の指紋は縦、横、斜め。その指紋は大体幾つくらいあるかと思いまして、私はその当時‘市の走友会’という走る会に入っていましたので、仲間と10人くらいで千葉県のフルマラソンに行くときに、バスの中で全員に掌の指紋を取らせてもらいました。「いつから警察の手先になったんだよ」と冗談を言いながらも皆協力してくれました。その指紋を数えたところ、女性で細かい人は1cm当たり14本、男性で荒い人は1cm当たり8本でした。その間をとって、1cm当たり10本から12本の筋を入れたのがこの少し黒っぽく見える砲丸です。後で、どうぞご覧になってみてください。

私はその当時、市の体育指導員をしておりました。茨城県にある有名な大学で筑波大学には、きちんとした陸上のグラウンドがあります。沢山陸上選手もおります。そこへ、年に2~3回、4年間勉強していました。そこの監督と仲良くなって、従来通りの砲丸二つと新しい筋の入った砲丸二つを陸上部に寄付するから、陸上部の選手全員に試し投げしてもらえないだろうかと言ったところ、砲丸をもらえるのなら喜んで使わせてもらいますと言ってくれ、選手が沢山集まる日に砲丸を4つ持って筑波大学に行きました。
最初2回は、つるつるの砲丸を投げてもらい、一休みした後に筋入りの砲丸を投げ始めたところ、選手全員が「あれ、これ今までのと全然違うよ。投げやすくて飛距離も出るみたい」と、25人いた選手全員から答えが返ってきました。これならいけると私は思いまして、その時協力してもらった選手には申し訳ないのですが、その当時東京オリンピック以後、砲丸投げの選手としてオリンピックに出場した選手は一人も日本にはいませんでした。ですから、レベルの低い選手が「これは違うよ」と言ってくれるのなら、オリンピックの選手であればもっと敏感に感じるのではないかと思いました。
バルセロナに黒っぽい筋の入ったほうの砲丸を32個送りました。32個というのは、メインのグランドに16個、サブグラウンドという練習用のグラウンドに16個置きます。そして開会式の数日前には、器具の担当者がリスト通りにきちんと揃っているかどうか全部をチェックします。始まってからあれが無いこれが無いではみっともないですから。そして、なんとサブグラウンドに置いてあった私の砲丸16個が全て紛失してしまったという連絡が入りました。急いで16個作って送ってくれと言われて、私は急いで作って成田の空港まで行ってスペインに送りました。
そしてオリンピックが終わった後、またまたその16個が無くなったという連絡がありました。皆さんもオリンピックの映像をご覧になると思いますけれど、警察と軍隊がすごい警備をしていますね。ところが、あれは泥棒よけの警備ではなく全てテロ対策です。砲丸投げのがっちりした選手は190cm以上あります。その選手が自分の着替えと一緒に一つ入れて歩いていても砲丸を持っているという感じはまったくしません。それで32個の砲丸は、私が頼みもしないのに世界中にばら撒かれてしまったということになりました。次のアメリカのアトランタは映像に映りましたけれども、決勝に残った8人の選手全員が私の砲丸を使った、という事が起りました。
私は若い頃から陸上をやっていましたので、投てきの選手、特に砲丸投げの選手には面白い癖があるのです。私は自分自身で知っています。さっきお話したように以前の砲丸は100gくらい重かったり軽かったりしたのです。ですから、一人の人が投げて上手く投げた場合は全員が同じものを使う癖があるのです。特に砲丸投げではその癖が如実に出ます。
もし、アトランタで選手がそのような感覚を持って私の砲丸を全員が使ったとなれば、次のオーストラリアのシドニーでは違った結果になるのではないかと思い、楽しみにしていたところ、NHKからホテルや航空券があるから行かないかと言われ私は倅と2人で行ってきました。開会式から10日間。どうしてそんなに居たかというと、陸上競技と言うのは開会式から1週間後に始まります。2008年の北京オリンピックでは、開会式が8月8日で、砲丸投げが始まったのは8月15日でした。1週間後から始まっています。そして、陸上競技で最初に始まるのが砲丸投げで、最後が男子のフルマラソンです。このようにスケジュールが決まっているそうです。なぜ砲丸投げから始まるのかと質問したところ、砲丸投げはギリシャで最初に始まった時からずっと続いている競技だからだそうです。陸上競技の中では一番権威のあるスポーツであることを説明してくれました。ですから砲丸投げの選手が午前中予選で午後から決勝で、最初にメダルをぶら下げることができる権利のあるのが砲丸投げの選手だと説明してくれました。

お陰さまでシドニーでもメダルを独占する事が出来たので、これで自分でも世界に通用する品物だから自信を持ってもいいなと思っていました。シドニーは2000年でした。2001年の春に、アメリカのロサンゼルス・タイムズの新聞社がお見えになって、アメリカの大手の陸上競技器具関係の会社がおたくに技術指導に来て欲しいと言っているという話を持ってきました。なんとその時の金額は週給で、1万ドルでどうだろうかと。今のような83円85円の時代ではありません。きちんと覚えていますが、115円でした。1週間で115万円。ずいぶん向こうではお金を出すなと思っていましたけれども、別に日本で食えないわけじゃない。欲を出すと、人間ろくなことはないと思って、私はその場で断りました。そして、半月もしないうちに今度は代理人を一緒に連れてきて、日本語と英語で契約書を作ってきて、「これにサインだけしていただければ契約が成立します。」行くとも行かないとも言ってないのに、アメリカのやり方はこういう風に強引なんですよ。その時に提示された金額は、なんと週給で2万ドルでした。そうすると1週間で230万円。いくらなんでもそんな金額は我々のようなちっぽけな会社では稼げません。さて、それを聞いたときにどうしようかと迷いました。
とにかく、じっくり考えたいので少し待ってもらいたいと言って、待ってもらったのはいいのですが、その晩から「あれ、自分は2重人格かな」と思ったことがあるのです。こうして起きている時には「いくら金を積まれても、日本で開発された技術をそう簡単に売ってたまるか」と言っている人間が寝ちゃうとダメなんですね。夢の中に100万円札の束が無数にぶら下がっているのです。それをニコニコしながら鞄へ詰め込んで、契約書にサインをする寸前に目が覚めるのです。これを続けていたのでは身体に悪い。私はアルコールには強いほうではないのですが、この夢が2日、3日と続くので、しょうがないので普段はビールくらいですが、ウィスキーを買ってきてハイボールを作って2,3杯飲むと真っ赤になってひっくり返ってしまいます。そして朝になって、こんなことをやっていたら身体が持たないと、すぐに来てくださいと代理人に連絡しました。
その時に分かったのですが、アメリカの契約書には判子が全く要らないのです。サインだけですんでしまいます。そして、給与体系は週給か年俸かです。そして、向こうはサインを当然するものだと思って書類を持ってきました。「いや、良い話しだけど、色々考えた結果、お断りします」と言ったときに代理人が、「これだけの条件をなんで断るんですか、そんな日本人を私は初めて見た。私も小僧の使いとは違いますから簡単に帰るわけにはいかない。どういう理由で断られるのか、聞かせてください。」それは、当然ですよね。
私は最初に3つの断る理由をあげました。
一つ目は、今の日本は後進国に対してあまりにもハイレベルの技術を教えすぎています。そして、製造拠点まで向こうへ移して、向こうに教えている。私は、技術指導がいけないとは言いません。しかし、相手国が潤った見返りが、本当は日本に戻ってこなくてはいけないのです。そこでまた日本が潤うような技術指導でしたら私は賛成するのですが、今の状態は、向こうへ行きっぱなしです。皆さんご存じでしょうが、私の周りの中小企業で良い状態の企業は現在1社もありません。一時よりも良くなったという会社で仕事が50%戻ってきた程度です。これを続けていたら、日本の中小企業は全滅します。また、今の円高のために日本では作っていけずに海外へ移転する話もたくさん出ています。ですから、私は自分で考えた技術を日本にプールしておかないと、そのうち技術大国日本だなどと言えなくなります。少しでもこれからの技術は日本できちんと抱えておかないと、技術大国日本という言葉は死語になってしまいます。
二つ目の理由は、この世界一の品物は自分だけの努力でできたものではありません。ご存じの方もいらっしゃると思いますが、私は埼玉県なのですが、埼玉県の川口には鋳物工場がたくさん昔はありました。そして、川口には鋳物工業会という鋳物だけの工業会があります。鉄に詳しい先生方が何人もいます。先生方は大学で鉄に関する講義をして、有料で教えていらっしゃいます。そこへ、私は時間があるときに電話をして「先生いる?」と聞くと「時間がある時にいらっしゃい」と、無料で鉄に関することを色々と教えていただきました。私が一番お世話になったのは鋳物工場の社長さんです。「俺もずいぶん長い間鋳物屋をやっているけど、普通の加工屋さんがわざわざ鋳物屋まで来て、真っ黒けになって鋳物の勉強をするのを初めて見たよ。よし、俺も協力してやるよ。不良品になったものはまた持っていらっしゃい。製品になった分だけうちはお宅に請求するから」と言っていただいたので、私は安心して研究する事ができました。いくら高額を積まれても、私はアメリカまで技術指導に行くことはできませんでした。皆さんも同じでしょうが、人間は義理人情を欠いたらこの世で満足には生きていけません。これが二つ目の理由だったのです。
そして三つ目の理由は、相手の会社に都合のよい条件でした。3年契約で、1年目に20人の優秀な人材を渡すから、1年で半分ずつ、2年目に10人、3年目に5人の汎用旋盤で砲丸を作る職人を養成してくれ、挙句の果てに、製造権を譲渡してくれということなのです。そうすると、私が3年後に帰ってくると自分でできなくなるわけです。そんな馬鹿な話はありません。せっかく皆さんに協力してもらってできた品物をアメリカへ売って、そして自分でできなくなるなんて皆さんに対しても申し訳ありません。
最初に断ったのが4月です。その話の途中で、いくらなんでも週給2万ドル払って、その会社は採算がとれるのかを代理人に聞いてみたところ、1週間くらいで返事がきました。砲丸の技術の指導で週給2万ドルを払ったのではとても採算はとれません。当たり前です。けれども、オリンピックでメダルを総なめするような製品を一つでも作る会社は、他の品物がたくさん売れるのだそうです。日本と違って会社の信用度が格段に上がるのだそうです。
ですから、もっと高価な品物が2倍、3倍売れるから、砲丸の技術の指導に2万ドル払っても十分採算がとれるという返事でした。そして、完全に断った年の10月か11月でした。いきなりオリンピック委員会と国際競技連盟の両方から、筋入りの砲丸は規則違反だから、全部筋を研磨して次のアテネには納めるようにしてくださいという文章が英文で届きました。皆さんもご存じのように、日本の水泳やスキーのジャンプの選手が金メダルを取ると、後で必ずルールが変わります。このように日本の選手がトップに踊り出ると必ず世界中から叩かれます。叩かれるというのはトップになった証拠なのですが。
それで、筋入り砲丸を表面研磨して納めましょうということになりました。筋が入っていたころは、筋と重心の位置という二つが特徴だったのですが、一つをカットされました。シドニーの時までは、玉の真ん中にある重心の位置が1ミリの半分くらいずれていたものもあったのです。ところが表面研磨すると持ちにくくなります。そして、持ちにくくなっても、重心を完璧な真ん中に来るように加工してアテネに納めたところ、やはり選手が試し投げして「あ、これが一番いい」と分かって、アテネでもメダルを独占することができました。

次の北京オリンピックの話をしたいと思います。私は北京にも散々要請されたのですが出さなかった理由は、2004年に、お若い人はご記憶だと思いますが、中国の重慶でサッカーのアジアカップがありました。あの時の中国人のサポーターの行儀の悪さ。日本人の悪口を言い放題。また、ペットボトルを投げつけたりした映像を見たときに、「あれ、こんな国でオリンピックをやっていいんだろうか」と最初に思いました。しかし、オリンピックになりますと世界中から観客が来ますし、こんな方々ばかりがオリンピックを見学する訳ではないから納めようかなと思っていたところ、2005年に中国全土で反日デモが起りました。日本の料理店に石を投げたり火をつけたりしました。テレビの映像を見て私が一番頭に来たのが日本大使館に投石しているデモ隊に対して警察官が前で守っていました。その時に制止する警察官が一人もいませんでした。そんなに日本が嫌いならば中国にはもう絶対に送らないと決めたのが、この反日デモでした。
私は中国が嫌いではありません。中国の友人はたくさんいます。中国の友人というのは信用するまでに10年かかります。本当にあなたを信用しますという時には、友達は印鑑を送ってくれるのです。象牙でできたものです。龍の頭のついた象牙の印鑑に私の苗字名前まで彫りこんで、友情の証しだと4人からもらいました。象牙ではなく水牛のものもありました。このように、私には中国人の友人が沢山いるにもかかわらず、どうして送ってくれないのかと散々言われましたが、「職人というのは一回ダメと言ったらダメなんだ」ということで中国の友人達も諦めました。
東京の国立競技場の観客席の下にスポーツ博物館があります。別名、三笠宮記念館といいます。そこに日本でも自慢できるような製品、日本選手が使った道具、メダルを陳列してあります。その中に、私の砲丸が3つきちんと飾ってあります。そこは中学生や高校生が東京見物に来た時に回って歩く場所なのですが、自由に持てるようになっています。砲丸というのはこんなに重いものだと実感できるよう飾ってあるのがこの写真です。
それからもう一つは、砲丸が沢山並んでいる写真があります。これは、実はトヨタさんのラーニングセンターといって、研修センターが名古屋から少し南に下った大府市にあります。トヨタ自動車とその前身であるトヨタ自動織機に毎年何百人も入社します。そして、1年間両方で働き、優秀な人材を50人ずつピックアップして、トヨタラーニングセンターで研修させるのです。勉強させるというのは、トヨタさんでも自動織機さんでも今は全てハイテク技術です。人間というのはハイテクばかりで物を作っていたのでは本当の物づくりではない。トヨタラーニングセンターではNC関係、マシニングセンタ等は一切ありません。全部私が使っているような汎用旋盤、汎用フライスで物造りをして、手で作る場合はこうした苦労があるというのを1年間合宿させて養成しています。その勉強の一つがこの砲丸なのです。
トヨタさんですから鋳物を溶かして砲丸の形を作るのなどは簡単です。砲丸をトヨタさんが作っています。といっても砲丸をトヨタさんが売っている訳ではありません。また溶かして次の物を作るのですけれども。その教育の一環に私の砲丸が使われています。そして、私がここに最初に講演に行ったのは2006年です。そこでお話をさせていただいた時に、とにかく修行中はいくら失敗をしてもかまわない、失敗を恐れずにどんどん研究しなさいと言って、そこの20~30人の先生達にも、先生はものを教えるのが仕事だけれど技術的な教育では10のうち10教えてはならないと話しました。10教えたければ半分までにしておいて後の半分は本人達に考えさせる、そうでなければ若い人たちは伸びない。人間というのは教えられた事というのは忘れやすいのです。自分が苦労して失敗した原因をつかんだ場合、必ず頭や体に残ります。こういうシステムで教育していかないと人間というのは伸びませんよと私は先生に話してきました。
なんと、2007、2008、2009年になりましたら、技能オリンピックでメダルをとる選手が続出してきたのです。あの時に講演してもらった内容が、これほど子供達の勉強になった、子供達だけではなく教官にも考えさせられることが多かった。あなたの言われたように全部教えず失敗してもかまわない。その失敗の原因を自分の力でつきとめるようにしなさいと、こういう教育をするようになりました。2007年、08年、09年と連続してメダルを取る生徒が出てきたことを喜んでいました。
今年の7月に私はまたラーニングセンターに行きました。旋盤加工部門の技能オリンピックで、相手国64カ国の中で金メダルを取ったという人が私を待ち構えていて、「先生のおかげでメダルを取りましたよ」と待っていました。教官の方達も集まってきて、また子供達の教育の仕方を教えてくれと言われたような状態です。ですから、ハイテク技術よりもローテク技術をマスターして物づくりをした方が後々役に立つことを自分の実感として感じています。もう一つ面白い話があります。どうして失敗してはいけないのか。今までは、失敗すると先生達がとことん失敗の原因を教えていました。それが間違いの元だったということが先生達もお分かりになったことと思います。

そして北京オリンピックの続きになりますが、最初旅行会社が募集したのが1週間28万8000円でした。ところが人が集まりませんでした。これは大変ということで東京・名古屋・大阪では18万8000円まで10万円下げて募集しました。それでもまだ、開会式の10日前になっても満足に集まりませんでした。私には陸上競技場の友人がたくさんいるので、遊びに行った時に、「それを8万8000円にまで値切って10日行ってきたよ」という話をしてくれました。ところが、北京オリンピックを目論んで近郊にホテルをたくさん作ろうとしたが、ホテルが未だ半分しか完成しないまま放ってある状態を見てきたそうです。私の友人が15人も8万8000円で10日間行きましたが、彼らは北京からなんと1時間以上も離れたホテルに泊まったということでした。
そこで面白い話が、鳥の巣といっていた陸上競技場が一杯になったのは開会式と閉会式だけだったそうです。彼らが見ていたところ、陸上競技が始まってテレビで放映している時はきちんと鳥の巣が満員だけれども、オリンピックですから色々な所で他の競技もやっています。テレビの映像が切り替わったときには、その人達が見ていた右側の所の1万人くらいがそっくり居なくなってしまったそうです。「あれ、まだ競技が終わったわけでもないのに、どうしたのかな」と思い、その後またテレビの映像が始まる前にはその人達がきちんと戻ってきている。そして、また映像が切り替わって陸上競技の放映がないときには、今度はこっち側が1万人くらい居なくなる。「あれ、この連中サクラじゃないのかな」と感じて、表へ出てみたところ、なんと皆さん交通整理をやっていたり箒を持って掃いていたりしていたそうです。でも日本ではこういう状態は放映されませんでした。ところが、ヨーロッパではこういう状態はきちんと放映されていたそうです。
どうしてヨーロッパの話が分かったかといえば、私の所には外国のメディアがよく取材に来るのです。そういう時に話してくれました。そして、ヨーロッパでは北京オリンピック反対の機運がすごく高かった。皆さん映像でご覧いただいたと思いますが、ギリシャのオリンピアで太陽から光を取って聖火を灯します。あの時すでに国境なき医師団が黒い横断幕で北京オリンピック反対を掲げていた様子は日本でも映されていました。それが日本に回ってきて、ご存じのように日本では長野の善光寺からスタートする予定だったのです。ところがその前にチベット問題が起りました。そして、近くの公園から日本ではスタートしたというのは皆さんもご存じのとおりです。ところが中国では世界中で歓迎されて中国に帰ってきたと報道されています。
私は外国には技術指導には行かないと言っているんですが、本当は行っているんです。というのは、皆さんびっくりされるのですが、ボーイング社。あの飛行機を作っている会社に技術指導に行くのです。その話をすると、「えー、そんなにすごい技術を持っているの」と聞かれるのですが、そうではないのです。今、ボーイング社で一番困っているのは、ローテクの技術者がいないのです。
アメリカは日本よりも30~40年も物づくりのマニュアル化は進んでいますから、手作りで物を作ることを教えられる職人というのは、ヨーロッパやアメリカではもう90歳や100歳以上の人になってしまっています。
私は2年に1回ずつ5週間ずつ、要するにローテク、汎用機械をつかった手作りの物づくりを教えにいきます。飛行機の部品、747型のジャンボになりますと部品の数だけで300万点あります。ジャンボ一つを例にとると300という数字は色々と参考になります。500人くらい乗れるジャンボの総重量は300トンです。これが時速300になったときに浮き上がるような設計になっています。そして、部品の点数は300万点、そのうち一番壊れやすい部品のリストもきちんとできています。小さなシャフトなんか、両方から留めますので右ネジと左ネジがあります。小さな部品を作る作り方、そしてベアリングのはめ合わせの作り方、そういうものをどうして教えに行くかと言いますと、日本をはじめ先進国ではジャンボ、トリプルセブン、767型、などロングランLR型という長距離を飛ぶものは7年間使います。羽田から北海道へ行ったり九州へ行ったりする短距離はショートランSR型といって6年間使います。けれど飛行機の手入れをすれば25年間はもつのです。日本で使ったり、先進国で使ったりして、それからアフリカ、南米、旧ソ連からの独立国などに整備後に売り渡します。
国際空港と名のつくところはきちんとした整備機器はあるのですが、ローカル空港には満足な整備工場はありません。ですから私の使っているような機械で壊れた部品を手作りで作る人間を私は養成に行くのです。1回に20人を対象として5回行きましたのでもう100人になりました。ローカル空港で、地元の人に、旋盤やフライスの手作業で部品づくりを教えています。ハイテク技術ばかりではそういった事は教えられません。その卵を私達が教えに行っています。
ですからボーイング社に技術指導なんて言うと聞こえはいいのですが、なんと自分が普段やっていることを教えているだけです。ですが、肝心な事は教えません。もったいないですから。
面白い事に、機種名は7という数字が多いです。727、737、今はジャンボに変わって777がこれから主力になるという話をしていました。なにしろ技術指導に行くのでも、教える相手は手作業の経験がない人達ですから、ものすごく大変です。右ネジ一つ切るのでも朝から晩まで1日かかり、同じ事をやります。左ネジになると、機械関係の方はお分かりですが、NCでやると左ネジ右ネジは簡単ですが、汎用機械で左ネジを切る時は、いちいち機械を止めるのです。そして、戻してきて、先まで進めて、そしてまた機械を回す。これの繰り返しです。これができるようになるまで2日から3日かかります。そうしなければ小さなシャフトの両側のネジが切れないのです。
ダイスを使えば良いのですが、ローカル空港へ行くとダイスの使い方も分からないのです。私はローカル空港まで指導に行ったわけではありませんが、できないと聞きました。やはり、細かい品物、ベアリング合わせの場合、私達の場合には100分の5ミリくらい太めに削っておいて、後はヤスリにペーパーを巻いてさーっと仕上げるとベアリングはすーっと入ように加工ができます。NCですとそんな馬鹿な事はやりません。けれどもローカル空港で物を作るというのはそういう事をしないと上手く部品ができないのです。
時々外国から、先日はプエルトリコから葉書がきて、その葉書の通りの加工機械しかないけれども、それはなんとベルトがけの旋盤なのです。ベルトがけの旋盤は最高回転350から400くらいです。ですから超硬バイトが使えませんので、ハイスのバイトを送ってください等という連絡も来ます。世界中で私の教えた人達が普通の機械を使って物づくりをやっています。そういう所へ行く人達の給料は比較的良いそうです。ですから皆さん喜んで行くのだそうです。先ほど、週給1万円の話をしましたが、5週間の私の給与というのは7000ドルです。
やはり7が好きなのです。円高になってきた去年か、一昨年の場合には、少し上げてくれと言いましたら7700ドルになりました。「なんでこんなに7が好きなのかしら」と思います。今でしたら、7700ドルはたかが知れていますね。このところ83円くらいでしょうか。そして、私の作っている砲丸の半分は輸出用です。円高の影響はどうですかという連絡があるのですが、ご存じのようにドル建て、円建て、ユーロ建てと色々あります。私は円建てでやっていますので、全く関係ありません。ドル高のときにはドル建てでやったほうが利益が上がりますが、こうなってくると円建てで良かったと感じています。ここまでで何かご質問ありましたらどうぞ。
オリンピック用に納めるときは、全て無償です。はい。それで、32個納めるのに150個位作ります。ということは、プラス5~20個、ですけれど、プラス9~10くらいに32個を統一してしまいます。そうすると、たくさん作らなければそれくらいの寸法のものは出来ないのです。余った品物を分けてくれと言う方にお売りしています。なにしろ、100個以上、今はあまりもう在庫はないのですが。納めた国、納めた会社が使ってくれないと、一銭にもならないのです。名誉にもなりません。無償で納めても使ってもらえれば会社の評判が上がります。そのために無償でオリンピックの度に提供しています。そうなんです、一銭にもなりません。ところが、私の場合は無償で提供しても信頼度がありますから、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌が宣伝してくれますから他で売れます。

そして、JETRO、ご存じのように日本の輸出振興機構ですが、この組織が一カ月おきに冊子を出しています。英文で日本の情報を掲載したものです。これに2007年に私の記事が6ページに渡って紹介されたため、日本の砲丸はここで作っているという事が世界中に知れ渡りました。きちんとしたものを作っていれば誰かが宣伝してくれます。自分で宣伝しなくても。
世界中からの注文はファックスで来るのですが、英文で来るものはなんとかなりますが、アラビア語で来るものはどうしようもないのです。しかし、数字は万国共通ですから数量は分かります。どの大きさを何個という部分は分かるのですが、内容は全く読めません。
私には息子が3人います。長男は高校卒業したとき「親父、俺は大学行かなくてもいいだろうか」と言うのです。「うちの親父を見ていると、大学も出ていない人間が大学に行って教えているじゃないか。俺も社会で少し勉強した方が大学で勉強するよりも気が利いているんじゃないか。」長男がそのような具合ですから、次男、三男と、ひとりも大学に行きませんでした。長男は15年ほど社会勉強をして帰ってきて、今は私の第二のレンタル会社の社長をやっています。
私には6人の子供がいますが、男も女も全員表へ出しました。社会はどういうものか、人間同士の付き合いはどういうものかを良く勉強して、親父の仕事を手伝ってやろうと思ったら帰っておいでという教育をしました。すると男女とも全員が帰ってきました。
そして、有り難い事に兄弟げんかをしている子供は一人もいません。人間との付き合いを社会に出て勉強してきます。我慢するところは我慢し、主張するところは主張する。そういう事がきちんとできるようになって帰ってきました。私は今三つの仕事を掛け持ちでやっているようなものです。
自分の本職と、全国での講演と、倅の会社の手伝いと、4月から11月頃までは殆ど休みなしです。自分でもよくもつなと思いながら頑張っているのですが、人間というのは仕事に追われていると、結構もちますね。そうじゃないでしょうか。
このようにして毎日黙々と砲丸を作っております。そろそろお時間のようですので、この辺でお話を終わらせていただきます。今日はありがとうございました。
添付資料(印刷用にご利用ください)
- 20100908report.pdf (1.3 MB)
講師:辻谷 政久(つじたに まさひさ)
有限会社辻谷工業 代表
昭和8年 東京都台東区浅草生まれる。昭和34年 辻谷工業設立、昭和58年 有限会社辻谷工業として会社設立後、陸上用スポーツ用具、レジャー用品、その他各種部品を設計製造。現在に至る。日本ファッション協会 ものつくり大賞、厚生労働大臣賞 現代の名工、平成20年秋の褒章受賞(黄綬褒章)を受賞。- 日時・場所
2010年9月8日(水)
14:00~16:00
福岡商工会議所 502会議室TEL 092-441-2161
JR博多駅博多口より徒歩約10分
地下鉄祇園駅5番出口より徒歩約5分
有料の立体駐車場がございます。















