「道頓堀発おもてなしの心」(2009/09/09開催)
どのようにして後継者を選んだのか?2代目社長に要求される能力とは?後継者へのバトンタッチをどのように行ったのか?2代目社長としてどうやって社員に夢を持たせ会社を発展させていったのか?など事業承継にまつわる様々な問題点や解決方法等について各業種で実際に事業承継を行った元経営者、事業を引き継いだ後継者の方をお招きして、講演していただきます。
本文の後ろに添付資料がございます。印刷してご利用ください。
皆さんこんにちは。ただいまご紹介賜りました、大阪くいだおれの、今は会長をしております、柿木道子と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
本日はこの福岡の地に来させていただきました。そして会場に入りましたら、これは国際会議場ではないのかしらと思うようなあまりに素晴らしい会場で、私は相当ビビっております。本当に、こんなに新しくて綺麗な会場で、私ごときがお話させていただく機会を得たなんて、光栄なことでございます。本当にありがとうございます。
店をやっておりました時に、色々なお客さまがお越しになりました。ご接待申し上げております際に、様々なことをお話させていただきましたし、また聞かせていただきました。北海道のお客さまや九州のお客さまなど、たくさんいらしたんですけれど、そんな中で大阪のお客さまが、ある時おっしゃっていました。「わしなぁ、こないだ福岡行ってきてんで。福岡ちゅうところは何や、大阪によう似とるなぁ。ええ感じやで。人懐っこいわ、人間がいいわ、そやけどパワーがあるで。大阪はパワーでは負けとるわ」、「そうか、お前もそない思ったか。わしも行ってきてええ所やなぁと(思ったわ)、食べ物屋さんに行ったら安うて旨いがな。何よりな、あそこには人情ちゅうもんがあるなぁ。おい女将、お前負けとったらあかんで」とこのように、言葉遣いは大阪弁でございますけれど、その中に、「本当に福岡はええ所やなぁ、ええ所やったぞ、大阪は負けたらあかんぞ」という、そういう励ましの言葉をよくいただいたものでございます。今でもありありと、その現場の様子が私には思い起こすことができます。そんな素晴らしい、お客さまがおっしゃっていた福岡に今日は来させていただいて、こうしてこの地域でご活躍なさっている、あるいは日本国中でご活躍なさっている皆様方の前で私ごときがお話をさせていただけるというのは、本当に幸せなことでございます。ありがとうございます。

そしてまた福岡と申しましたら、私には忘れられない思い出が一つございます。皆様方もひょっとしたら覚えていらっしゃるかもしれません。平成15年、今から6年前でございますが、(時期的にも)ちょうど今頃かもうちょっと後です。日本シリーズが、パ・リーグは今のソフトバンクさんがまだダイエーホークスさんだった時ですが、セ・リーグは阪神タイガースが出てきたんです。久しぶりでございました。その年は大騒ぎでございましたね。その時に何と、私とくいだおれ太郎の二人で新幹線に乗って、福岡ドームに乗り込んできたわけでございます。そうしてえらい騒ぎになってしまいまして、本当にその時のことも、今では忘れられない思い出になっております。
その時の裏話と言うとおかしいのですが、実は最初から福岡ドームに来てくださいという話ではなかったんです。ある新聞社さんが、その時に福岡に来て、観光名所を巡って福岡のPRをしてくれませんか、という話があったのが、一番最初のきっかけでございました。その10年くらい前、平成7、8年くらいからは、実はくいだおれ太郎に日本国中から、観光に来てもらったら話題になるから、来てくれませんかというお誘いはいっぱいあったんです。でも、私たちは行きませんでした。もちろんくいだおれの人形でございますから、くいだおれの宣伝のためにある人形であるということと、大阪のためになることだったらタダで行きます、ボランティアでどんなことでもいたします、と私は心に決めておりましたので、それで大手企業さんからコマーシャルのお誘いとか、色々な都道府県から観光に来てほしいというお誘いがあっても、私はなかなか首を縦には振りませんでした。うちにはうちのやり方がある、ということで、この人形は大阪の人形やから、大阪の地域を活性化する、元気にするためだったら私は行きましょう、ということをずっと守ってきたんです。そしてもし別の地域に行くためには、理由付けとそれからストーリー性というものが大切です。「何故?」と全国の方が聞きはる。それに対して、きちんと皆に納得していただかなくてはいけないから、それは難しい。だからストーリー性、そして「何故」というものがなかったら、私たちは動きません、ということをずっと守ってきたわけでございます。これには、後程お話する、納得していただける訳がございます。
そういうこと(信念)をずっと持ちながら経営を続けてまいりまして、たまたまその福岡の話も、本当は観光にきてほしい、そういうポスターを作りたいというお話だったんです。それに対して私はお断りをいたしました。でも他の方法で考えてみましょうと提案いたしました。それは、阪神タイガースの応援をしに福岡ドームに行く、この案だったら私は行きます。新幹線で行きますから、このように取り計らっていただけませんでしょうかと、その新聞社の方にお願いしました。
というのは、私が思いましたのは、阪神タイガースの(リーグ)優勝がその時にもう決まっておりまして、そしてダイエーホークスさんも(リーグ)優勝が決まっていましたから、日本シリーズをその2球団でするというのは、既に決まっておりました。だから、「阪神タイガースを応援するから行くぞ」と言えば、大阪の人たちがまず「行けー、行けー、そのノリじゃー」と喜ばれて賑やかになります。そして福岡の方は、「何をこしゃくな、来るか」というふうに迎えて下さるかもしれない。それは行ってみないと分からないんです。ひょっとすると「こしゃくな、こいつボカボカにやっちまえ」と言われるかもしれない。でもそれは楽しいことであるじゃないか、多少ボシャボシャにやられようが、私達は阪神タイガースの応援ですと、正々堂々と阪神タイガースの応援団としてタスキをかけて行こうというんだから、これで両方の地域が騒げば、「福岡に行くんか」と大阪の人が言えば、それだけ「福岡」という名前が何回も何回も出てくるんです。福岡の人にとってみれば、「何をこしゃくな大阪人が、生意気な」と、「大阪」という言葉が行き交うんですよね。そうすれば交流範囲が広くなるんです。私は、これは一つの経済効果だろうというふうに、今までやってきたことから、自分なりの経験で学んだんですけれど、こういうふうにした方がきっと費用対効果が大きいと思います、と申しました。
そうしたら、(新聞社の方が)何とかそれでやってみようとおっしゃって下さいまして、手配をして下さったんです。 そうしたら、思わぬところで、今度は東京系のテレビ局さんがそれに乗って下さいまして、東京から追っかけで、新幹線の同じ車両の隣の席を取って下さったんです。ところが大阪ではそうではなかったんです。JR西日本さんの新大阪駅で、切符を取って乗りますと言うと、「マスコミは一切シャットアウトしてくれ、そうでないと乗せない」と言われたんです。騒ぎになったら駅の問題だからということで、非常に厳しい警戒をされました。店からタクシーに乗って行きまして、駅からはマスコミさんはシャットアウト、撮ったらダメですよと言って、無事に新幹線に乗せていただきました。そして福岡の博多駅に着くまで取材はダメと、すごく厳しかったですね。
ところが、内緒でこっそり撮られたテレビ局はございました。上手なところがあるんだなと思いました。新山口から乗ってこられたテレビ局さんは、見るからに取材という大きなカメラを持ってこられて、車掌さんにこっぴどく怒られて、「ここで降りろ」と言われていました。走っているから降りられるわけがないのになと、私は思いながら見ていました。東京から乗ってこられた方は賢くて、小さいカメラを持ってこられはって、鞄に入れてはったので、ホームビデオなんでしょうか、私はそういう機械のことはあまりよく知りませんが、それでちゃっかりと車内の映像を撮ってらしたんです。良いとか悪いとか、そういう問題ではなくて、現実の話でございます。
ホームに着いたらもう取材はOKですということで、それから約30人くらいの方が付いて、福岡ドームにも来て下さいました。もちろん福岡ドームの広報課の方にしっかりと約束をしたり、許可を求めたりと、そういうことはきっちりとさせていただいていたわけでございます。でも内心では、福岡ドームは(観客)全部がホークスファンなんです。そこに阪神タイガース応援団なんて乗り込んでどうなるんかしら、途中でウワーっとやられるかしらと、私も分からないものですから、私と人形と、それを抱えて下さっている新聞社の方と4人程が、大丈夫かなとオロオロしていました。風船飛ばしの時に、しっかりとホークスの応援団の真ん中に入って一緒に写真を撮りたい、それが目的だったんですけれど、試合を見させていただきました。でも皆さん優しかったんです。
あのドームの中で移動する時も、ホークスファンの皆さんは誰も蹴飛ばしたりケチョンケチョンに言ったりされませんでした。いきなり、内緒で黙って行ったんですけど、「お、お、阪神タイガース応援団や、よう来たな」とおっしゃって、優しく迎えて下さいました。ほして、ホークス応援団長という方にも、実はお目にかかりまして、その方もおっしゃっていたんです。「どちらも応援団が燃えなかったら、野球なんて面白くないよな、だから、それぞれが一緒に応援したらええねん、それが楽しいねん。野球は見る人も楽しくするんだからな」というふうにおっしゃって下さいまして、すっかり仲良くさせていただきました。それから6年経っていますが、今でも手紙をやりとりさせていただいているわけでございます。その辺のところが、やはりうちのお客さまのおっしゃる、「情があるがな」と。商いの街福岡、大阪によく似ているなあと私は感じたわけでございます。
色々と楽しい思い出をたくさん持ちながら、皆さんもご存知のように昨年の7月、60年の歴史に幕を下ろしまして、くいだおれは閉店させていただきました。大阪の道頓堀という所で一店だけあった、くいだおれという店でございます。チェーン店は何もございません。そうして、閉店すると決心して発表した途端に、それはまたえらい騒ぎになりまして、私たちが考えている以上の騒ぎになってしまったんです。
既にくいだおれ人形は大阪の有名人の顔になっておりましたし、道頓堀に行ったら必ずあの人形の前で写真撮んねんで、という方がいつも店の前にいっぱいでございました。道が狭くなっても、本当に店の前は記念撮影をされる方でいっぱいなんですよ、店の中はガラガラやったけども。そんなことがあったんです。でも、やめると発表した途端に、またお客さまがどっとお越しになりました。今まで懇意にしていただいておりました全国のお客さまも、慌てて来て下さいました。「何でやねん、これからどうすんねん、わしらはこれからどこに行ったらええねん。今まで通り予約受けてーな」とおっしゃって下さったり、大阪のお客さまは、「あんたんとこがなかったら、道頓堀困るがな」とおっしゃって下さったりして、もう予約でいっぱいになりました。一見さんもいっぱいになりました。お土産のグッズを売っておりましたのが長蛇の列で、午前中には商品が全部なくなるというような、大騒ぎになったわけでございます。そんな騒ぎになるんやったら、もっと早う来てくれはったらと内心で思いながら、心の中ではありがとうございます、本当にありがとうございますと、感謝いたしておりました。
そして皆さんの心配は、「あの人形はどないすんねん」ということでございました。私達は、商売をやめるんだから、人形がどうなろうとしゃあないと、なかば腹を括ってはおりましたものの、大阪にとってええようにけじめをつけないかん、今まで「道頓堀命」、「大阪命」みたいに頑張ってきたのに、ここではっきりと、また更にそれが続くようなことが何か欲しいなあ、何かあればええなあと、我々も心の中ではそう思っておりましたから、オファーが200社程来たんですけれど、だからといってポンとお金で売る気にもなれず、どうしたらいいんやろか、何かいい方法ないやろか、街の人もここに残しといて欲しいって言うし、今までの(店の)OBも、「社長、何とかここに人形を残しておいて下さい、道頓堀に置いておいて下さい」って、皆言って下さるし、ここまで皆さんに言っていただけるんやから、何かいい解決方法はないやろかと、3ヶ月間の商売で非常に忙しい合間も、そのことばっかり心を痛めておりました。
そうしますと、ある方からご賛同というかご協力がありまして、くいだおれ太郎プロジェクトチームというものが出来たんです。大小企業の方が集まりまして、この人形をもっと上手に活用しようじゃないか、というチームなんです。くいだおれという名前と人形とをバラバラにしないで、一つのパックで「くいだおれ太郎」なんだから、そしてこれを何とかもっと活用する方法を考えようと色んな方が集まって、そして一つのチームが出来ました。有難いなと思いまして、私達はそれを受けることにしたんです。
では具体的にどうなのかと申しますと、例えば大手の宣伝屋さんはくいだおれ太郎を使って宣伝を撮ってきましょう、規模の小さいグッズ屋でも、それに関わることによって、関係することによってグッズを売って利益を得ましょう。つまり、私たちの望んでいますことは、その人形を数多くの方が活用して下さることによって、数多くのたくさんの方に利益を与えると言いますか、その方たちの収入になるという幅広い事業が出来れば、個人的に我々がよう使わないで持っておるよりは、地域の為になるし、多くの方に支えてもらってきた人形だから、多くの方にまた使っていただくことの方がいいなという結論でございました。
そして、一年後の今年7月、くいだおれの古いビルから20メートル程隣にございます、道頓堀のど真ん中に、くいだおれの3倍もある大きなビルがございます。昔、中座という芝居小屋があった跡地がビルになって、テナントさんが入っている食堂ビルになっていたんですが、そのオーナーさんが新しく変わられまして、そしてそこに「中座くいだおれビル」という新しいビルになりまして、そこの看板人形として、くいだおれ太郎は今現在そこで60歳になって再就職させていただくことになりました。
ある電気メーカーさんは、今までは関西電力の電気がございましたが、エコだから今度は太陽電気(発電?)を考えてやろうとおっしゃるメーカーさんも現れたりしました。そして、たくさんの方がより多くのグッズを作って、お土産を作って、そしてそれを買っていただくことによって、その関係の会社は仕事になる。そしてそれを賑やかにすればするほど大阪が発展する、大阪の名前が出てくるということに今なっております。
かつてはくいだおれだけのもの(人形)でございましたけれど、今はくいだおれは権利を持っておりまして、使っていただけばいただくほど収入になるように、ちゃっかりと計算できております。これを新しいビジネスで、コンテンツビジネス、中身のビジネスと言うらしゅうございます。私ども古い頭の人間にはそういうものは良く分かりません。あくまで食べ物屋として私はやってまいりましたので、食べ物屋のことしか分かりません。でもその食べ物屋でも地域のために、私たちは外食産業というものを通じて地域の発展に努めます、ということが会社のモットーでございましたので、食べ物以外でも地域の発展に貢献できれば、過去を生かすことになっているんじゃないかなと、そういう意味で私は納得しているわけでございます。 そういう現在でございます。
そして今日はその、くいだおれの60年というものを振り返って、どこら辺からどないなっとんやろうと、皆さんお思いになる方もいらっしゃると思いますので、歴史と共に、私もくいだおれに関わったやり方や、やってきたことをお話させていただきたいと思います。
くいだおれが出来ましたのは、60年前の1949年、昭和で言えば24年でございます。あの頃はちょうど戦後で、大阪中が焼け野原でございました。創業しましたのは、私の父親の、山田六郎という者でございます。兵庫県の日本海側、但馬国の出身。家は農家で、庄屋、村長をしておりましたが、六男でしたので後を継ぐわけにはいかない。その頃から、大阪に出て商人になりたい、大阪商人になりたいというのが父親の夢でございました。そして、実は専門学校まで行きましたので、銀行から40円の月給、今で言うと40万円くらいになるんでしょうか、いい給料の就職の内定が決まっていたんです。ところが父親はそれを蹴りました。親がせっかく決めてくれた職を、「わしは行きません、わしは丁稚奉公に入ります」と、(給料が)3円50銭という丁稚奉公に入ったのです。自分は商売人、商人になりたいから、丁稚奉公から一から始めますと言って、丁稚奉公に入った先が洋服屋でございました。
洋服屋というのは、その頃は昭和の初期でございますからまだまだ珍しい時でございました。そこで商売のイロハを一生懸命身に付けたようでございます。そして独立させていただいてから、自分でもやりましたのが、洋服屋でございます。洋服屋で修行しましたから、洋服屋でございます。だから父親は、戦前は洋服屋でございました。
今日はお若い方が多いからご存知ないかもしれません。アッパッパーという婦人簡単服という名前を聞かれたことがございますでしょうか。これは日本初めての婦人既製服だそうでございますが、そのアッパッパーを考案しましたのが私の父親、つまりくいだおれの親父でございます。そして戦争中の、思い出したくなんですが国民服という服、これを考案したのも私の父親、くいだおれの親父でございます。ですから、私の父親は戦後も洋服屋をやりたかったそうなんです。戦前は洋服卸しだったから、戦後は今度は大阪で小売りをやりたいなと思って、その土地を探していたそうです。ところがその洋服屋に欲しいなと思う土地が全然手に入らなくて、思いがけず持ってきて下さった話が道頓堀の土地だったんです。それが今の、この間までくいだおれのありました、道頓堀の土地なんです。その土地を「あんたに買ってほしいんや」と言って持ってきて下さった方が何故父親を指名して下さったかと言うと、この土地を生かして活用して使ってくれる人に土地を売りたいんだと、そういう希望だったようでございます。そうは言っても戦後の瓦礫の山、何にもない所でございました。そんな瓦礫の山でも、道頓堀だから他より3倍もする高い土地でございましたが、父親は「見込まれてこの土地を買うてくれ言われた、よし」とその土地を買ったんです。
この土地を生かすのに、どんな商いをしたらこの土地が生かされるやろうか、何の商売をしたらええんやろかと、父は考えました。そして戦前、またそれよりもっと昔に、道頓堀はどんな歴史があった所かと一生懸命考え、そして勉強して思い出しました。
江戸時代から芝居小屋と食べ物屋で賑わっていたという日本一の繁華街、つまり生活の場ではなくて、元々繁華街として作られた土地なんです。ですから戦前も、「赤い灯青い灯道頓堀の」っていう歌がはやりました。道頓堀行進曲という曲でございます。カフェがあったりしまして、芝居があって人形浄瑠璃があってと、そういった文化的な、文化の発信基地のような、そんなハイカラな場所だったんです。それを父親は思い出しました。「わしがここで出来ることは、食べ物屋やなぁ、興行、芝居、これはわしにはさっぱり分からんから出来ない、食べ物屋だったら出来る。自分は包丁は持てへん、鋏しか持てへん。洋服屋やから。だけど、職人さんを雇えばええんだ」ということで、職人さんや支配人を募集して雇って、そして食べ物屋をすることに決めたわけでございます。
戦後の新しい日本だから、今までになかったような、そんな新しい食べ物屋を作ってみせてやるわと考え、思い付きましたのが総合食堂です。それは何かと申しますと、親子三代、子供さんも女性も皆が健康的に楽しく外でご飯を食べられる食べ物屋です。戦前にはそんなものはなかったんです。今の時代は外食産業は当たり前の話で、「お前いつの話してんねん」と思われるかもしれませんが、戦前にはなかったんです。日本に外食産業が入ってきましたのは、それから20~30年後の1970年、大坂万博以降のことでございます。ですからくいだおれが出来た時は、食堂としては新しいものだったんです。大阪一の食べ物屋になりたいもんやから、大阪一の名前、大坂らしい食べ物屋の名前を屋号に考えないかんなと、一生懸命考えて思い付きましたのが、昔から言われています「京の着倒れに大阪の食い倒れ」という言葉やったんです。
ところがそういう言葉を皆さん忘れられていたと言うか死語になっていたと言うか、父親が「大阪名物くいだおれ」という店の名前にすると発表しましたところ、まわりは皆大笑いです。「アホか、食うて倒れるん?そんなもん腹痛やん、中毒やん。第一、商いする前に商売倒れてどないすんねん。そんな縁起の悪い名前してそんなもん持ちまっかいな」と、皆に反対されたそうでございます。でも父親の信念は変わりません。「そうやない、大阪は食べる物に口うるさいねん、食べる物を大事にすんねん、食文化が発達してんねん、昔からそうやねん」と反対の意見も聞かないで、夫婦二人で「ええ名前だ、ええ名前や、この名前が人様に今までに使われてないということは、きっと神さんがわしらのために残しておいてくれた名前や、良かった良かった」と言って、しっかり登録商標も取っております。そして名前が決まりました。
この店がここに出来たで、と皆に知らしめる方法は何ぞないやろかなぁとまた考えたんです。今やったらコマーシャルだ宣伝だと簡単にございますけれども、その頃はそんなものはございません。そんな言葉すらございません。せめてこの道、店の前を通りはる人皆に振り返って見てもらえるような、そんなもんをここに置いたらええねん、それは何やろかと(父は)考えました。「人間というものはな、動いて音のする所に目が行くねん。赤ちゃんのガラガラがそうやろ。動いて音のするもんを店の前に置いたら皆がこっち向いてくれはんねん。そしたら、ああ、店があんねんなと気が付くやろ。動いて音のする看板を店の前に置いたらええねん。」そこまでは辿り着いたんですけれど、動いて音のする物て何があるんやろとまた考えました。「道頓堀は歌舞伎や文楽の小屋がある。文楽人形は動くやないか。そやそや、あの文楽人形や」ということで文楽人形にヒントを得ました。文楽人形って、こんな小さいものでございます。それを等身大の人形を作ってくれと、人形師さんに頼みに行ったんです。「このおっさん、アホちゃうか」と笑われたようでございますが、熱心に(頼みに)行ったもんですから、「作ってあげましょう」と言って作って下さいました。
そして、今のくいだおれ太郎は実はニ代目でございますけれど、その前に初代がおりました。それはただただ、まだ動くノウハウが見つからなくて、ただビールを持った人形の台座がグルッと動くだけでございました。ビールは生のビールでございますから、動くたびにビールが飛び散りまして、お客さんに掛かるもんで、駄目になってしまったんです。「こらあかんな、これでは使えんな」ということで考えましたのが、「そうや、うちの店は子供さんに喜んで来てもらわないかんねん、そういう健康的な店なんや。そのシンボルだから、子供さんに喜んでもらえる人形を考えないかんねん。ビールとちゃうねん。」ということで、チンドン屋の人形を思い付いたんです。
明治生まれの父親ですから、チンドン屋の人形しか思い付かなかったようでございます。そしてそのチンドン屋の人形には、文楽人形と同じやり方で、首の所に三本筋が入っております。それを引っ張りますと目が動いたり眉毛が動いたりする、そういう仕組みになっているんです。
今の人形もそんなんです。出来た出来たと、東京の歌舞伎座から人形遣いさんを呼んできて、「お師匠はん、すんませんな、これ引っ張って動かして下さいな」とお願いしました。お師匠さんは動かしはりました。「ああ看板が動いた、良かった。チンドン、チンドン言うて、ああ良かった」言うて、次に見にいきましたら人形が止まっていました。「人形が止まった、どないしたんや」、「お師匠さん、今ご飯食べてはりまんねん」。行く度にご飯や休憩や言うて看板が止まっとる。看板は一日中動いとるさかに看板やがな、こらどないかせないかんなとまた考えまして、「そうや、電気仕掛けにせないかん」と、電気仕掛けを自分で考えたんです。ごめんね、えらい古臭い話をして。電気屋さんにああしろこうしろと、オルゴールの原理を利用いたしまして、同じリズムで紐が外れたり、当たったりする、それであの人形は動いているんです。今から60年前、1950年、昭和25年の1月に、漸くあの人形が出来たんです。もちろん日本で初めての、動く看板でございました。ちなみに、道頓堀と言えばもう一つの有名な看板、大きな7メートルもあるという蟹さんの看板がございますね。あの蟹さんの初代が出来ましたのが、それから12年後のことでございますから、12年間道頓堀にはくいだおれの人形だけがただひたすらチンドンチンドンと動いていたようでございます。
それ以来ずっと、それからは道頓堀と言えば賑やかな看板の街で今では有名になっているわけでございます。 父親は庶民のお店、庶民が喜ぶ店だから、食材のいいものをそれなりの安い値段で(提供して)、決して高級料亭にしてはいけない、あくまで庶民が喜ぶことをしなければいけないと考えていました。「アッパッパーを作ったのも、庶民が安い値段で簡単に夏服が買えるようにわしは考えたんや、食べ物もそうなんや」ということを常に申しておりました。それで、皆さんに親しんでもらうためには美味しいものをそれなりの安い値段で出さないかんなぁというのが、元々の父の考えでございました。
食材調達に、戦後の物のない時も一、所懸命努力いたしました。そしてもう一つ父親が思っていたことは、道頓堀の街の発展でございます。「道頓堀の街に店を出すということは、店にお入りになるお客さまだけが楽しんでもらうのではなくて、道頓堀を通られる、店の前を通られる方、皆に楽しんでもらえるようなことをしなきゃいかんのや。それが道頓堀という街や。あの街に行くだけで楽しいなぁ、ということを考えないかんねん」と常々言っておりまして、店の前をいつも色んなイベントをして賑やかにしておりました。
その中で、今から考えたら一番おかしなことは、昭和27年に、アメリカから初めて日本にテレビが入ってきたんです。テレビというものが輸入されたんです。そのテレビをうちは3台も買いました。高級テレビでございました。これがアメリカのテレビちゅうもんやでと、店の前にでーんと置いたんです。新聞にも載りましたし、皆見に来はった。アメリカのテレビジョンというのはまだベイビーらしいって(新聞に)書いてありまして、くいだおれの軽食堂にあるらしいと、皆見に来たんですわ。大きなテレビですごいんです。私も歳が分かってしまいますが覚えておりまして、皆見に来て、「この箱がなぁ、どないなるんや」。テレビ見たことがない人が皆見に来て、「動かへんがな」、「それはスイッチが入っとらんのちゃうか」、「スイッチ入れたら何か出るんちがうか」。ではスイッチを入れましょうかと、スイッチを入れました。ジーっと(画面が)雨みたいになって、何も映らへんやん。当たり前です。日本にはまだテレビ局がなかった。映るはずのないテレビの前で皆、テレビジョンというものはどういうもんかと、それを知りたくて、毎日毎日黒山の人集りだったそうでございます。
その頃の人はええ人ばっかで後で中に入ってくれはったんか、それは知りませんけども、黒山の人だかりでした。そしてその年に秋に実験放送が始まったんです。そうなりますと、本当のテレビ放送というものを皆が見に来たわけですけれども、父親はとにかく進んだこと進んだこと、そしてそれを皆に楽しんでもらう、喜んでもらうというのがとても生き甲斐だったようでございますから、非常にお金は遣いました。非常に儲けていないようでございますけども。
こうして、くいだおれは順調に進んでまいりました。段々、街も賑やかになりました。そして、1959年、つまり10年後でございます。昭和で言えば34年、地下1階、地上8階の今のビルを建てました。父親が夢にまで描いておりました、何でもあるという総合食堂でございます。和食、洋食、中華、寿司、麺、喫茶、鍋、それから個室もあって宴会場もあって一見さんもあってという、8階建てのビルを建てたんです。日本で初めての総合食堂ビルというものでございます。その頃、デパートの大食堂というのはございましたけども、一軒の店でそれだけのものを入れているビルというのは他に類がございませんでした。そしてその頃になると道頓堀はまたまたすごく賑やかになって、復活してきているわけでございます。

何故かと言うと、当時は映画の全盛期でございました。そして芝居も全盛期でございますから、各映画館、日活、それから松竹、東映、東宝、色んな映画館が新しい映画をするたびに映画館ははやります。そして芝居小屋、劇場も松竹、華やかでございました。藤間勘兵衛さんがまだ子供の丁稚の役をするような頃でございますから、とってもとっても道頓堀は賑やかでございます。そしてその中に日本で一番新しいという食堂ビルが出来たものでございますから、その食堂ビルも本当によくはやりました。
朝の10時から晩の10時まで、もう人、人、人。私も大学一年生の時でした。休みになれば、いつも手伝いに行かされておりました。お茶汲みとかレジ、洗い物、それだけしか私は出来ませんでしたけども、休みになるとタダ働きでございます。今だったらアルバイト賃をもらうとか、ご家族の人にでもお金を払ったりなさると思うんですが、私の父親は違います。大阪の商人、商売人でございます。「お前たちはこの店で大きくしてもろて、この店で学校にやらしてもらってんやから、勉強のない時は働くのが当たり前や」と、タダ働きでございました。そして、昔の商人でございます父がいつも言っておりましたのは、「店は大きくしたら屏風と一緒でこけんねんで。自分の力に合うた、程々や」というようなことをよく申しておりました。 こうして、店は賑やかになったんです。
道頓堀も賑やかでございました。恐らく日本一賑やかな街だったかもしれません。そんな時代が10年くらい続きました。そして、時代は次から次に変わりまして、先程申しました1970年の大阪万博があったんでございます。その頃父親は、「これからは大阪の時代だ、日本国中の人がこれを機会に、大阪に来はるぞ、東京だけじゃない、大阪も元気になるぞ」ということで、自分の店にも各地方の皆さんに安心して使っていただけるように、来ていただけるように工夫をしろ、セールスをしろと言って、営業の人間にそのようにセールスをさせました。ですから、1970年の大阪万博の頃から、くいだおれには全国のお客さまに来てもらえるように販促活動をしていたわけでございます。
大阪は賑やかになりました。万博以降、特に日本の産業は活発になりまして、第二次高度経済成長時代を迎えました。輸入が自由化になりました。世界各国から新しいものがバンバン入ってきました。高速道路が出来、新幹線が出来、そして何でもかんでも全てのものが新しく甦ったというか活性化したと言うか、発展してきた時代を迎えたわけでございます。間で少しオイルショックなどもございましたが、最終的にはそれからバブルに向かって、高度経済成長に向かって、世界の中でも大国・日本というくらい成長していったわけでございます。街の様子も変わってまいりました。中心地がどんどん外れてきたと言うのでしょうか、中心地が郊外に向かって伸びてまいりました。建物が新しいものがどんどん出来てまいりました。スマートなものが出来てまいりました。流行はコロコロ変わりました。使い捨て時代を迎えたこともございます。節約なんてアホかと使い捨てる。最近はまたそれの反省で、「もったいない」という言葉の時代に移っておりますが、使い捨ての時代、消費が美徳の時代というような、そんな時代も私たちは経験いたしております。
その頃は、とにかく新しいもの、ファッショナブルなものがええんや、新しい考えがええんや、というような時代を迎えておりました。何でも新しければええという、今まであったものは古いもの、これがほんまにええのか悪いのかと考える以前に「新しいもんがええ」と皆飛びついていく、そんな時代を迎えたように思います。世の中発展してまいりました。
建物も新しくなりましたし、もう一つ大きなものは、先程申しました、外国から外食産業という、新しい形態の食べ物屋が入ってまいりました。それがいつの間にか、大きなマーケットになって大きな産業になってきたのは、皆さんもうご存知のことだと思います。
そんな中で、忘れられているような場所、街もございました。大阪の中では道頓堀という昔からある古い街、ちょうど時は世代交代を迎える、親が次の世代に渡すような時代だったのかもしれませんが、今まであった古い街はそのままになっておりました。昭和50年から60年の間、1975年から1985年の間、道頓堀は随分衰退してまいりました。
それは何故かと申しますと、大きな理由がございます。映画館が駄目になったんです、芝居が駄目になったんです。映画館が一つ閉鎖され、二つ閉鎖され、芝居小屋が一つ閉鎖され、二つ閉鎖され、新しいテナントビルに変わっていってまいりました。昔から食べ物屋をやってはる所も、「バブルの時代やからこの土地を売って郊外に家を持った方が今はお金になりまんねん、もうこんな店やめますわ」言うて替わっていかれたり、そのままになってたりしておりました。映画や芝居がはやりませんから、人が来なくなったんです。古い店があまり変わらないものですから、そして皆は新しい店に行きたいもんですから、道頓堀に人が来なくなったんです。特に地元の人たちは経験があると思いますけれど、地元の人は、今まであるのは当たり前で、昔から、「親がいるのは当たり前、ふるさとは離れて初めて良さが分かる」とか申しますけれども、そこにあるのは当たり前なんです。だけど新しいものは、目新しい、珍しもんがりですから、皆とにかく行ってみないとまず話にならないわけですから、新しいもの、新しい場所、新しい外食産業、新しい名所に皆行くわけです。そして、当たり前の所は、どうしても放っておかれるわけでございますね。
道頓堀というのはそういう街になっておりまして、閑散としてまいりました。そんな時に、運も悪く、父親は腰を患いまして、寝たきりになって、7年間自宅で静養しておりました。「テレビで見ている限り世の中の景気はいいがな、そやねんけどうちの売り上げは悪いがな、どうなっとるんや」と思うんですけれども現場に行っておりませんから、道頓堀がどういう状態か見ていません。「留守番している皆が怠けとるんちがうか」とか、色々焦るばかりでございます。「数字が落ちてくる、売り上げが落ちてくる、どないなっとるんや、どないかせないかん。わしが元気な間に、大阪商人のわしがこの店をもう一回復活させとかんかったら、わしが死んだらこの店は駄目になる、潰れるかもしれん」と、心配が募る一方だったようでございます。「今までわしが一生懸命培ってきた大阪商人のど根性をここで見せないかんのにから、出掛けられへんし脚は悪いし口は元気やねんけども」ということで、自分に代わって、自分の思っていることを実際に実行してくれる者を探そうと思ったようです。
店の者は電話でああせい、こうせいと言っても一向に反応が返ってこないから、自分が実際に「お前、これをしてこい」と(言ったら実行してくれる)手足となる人間を探そうと思ったようでございます。悩み抜いた挙句に、白羽の矢が立ったのが私でございました。「道子、道子は主婦をして遊んどる」と。主婦は決して遊んでいるわけではございません。ただ私は商売人が大変だということをこの目で小さい時から見ております。親と別々に生活したり、苦しいことも明日のお金をどうすんねんというような時代もみんな知っておりますから、商人だけにはなりとうないわ、その点サラリーマンは座っとったらお金が入るんかななんて、「よその花は赤い」ですね。知らないもんですからそのように思っていたんです。だから主婦がしたい。身体もあまり丈夫ではなかったものですから、家で主婦をしたい。それに第一私こんなに無口でしょう、人の前で話なんかでけしまへんわなと、機嫌良く主婦している私の所に、昭和58年10月1日付けで、一通の願い状なるものが来ました。私の夫宛に、「道子を貸して下さい」って書いてあったんです。貸してくれって。離婚せいとは書いてごいざませんでした。「道子を貸してくれ」と。「今道子を貸してもらって、この子を使ってもう一回復活させないと店が駄目になりますから、申し訳ないけど貸して下さい」。
それが、明治生まれの男の考え方なのかどうか知りませんけれど、私の父親はそういう人やったんです。ちゃんと筋を通さなくちゃいかんというのが父の考え方のようでございました。正式にそういう願い状を持ってきたんです。それで、私は夫にどうしたらいいですかと聞きましたら、夫は、「親が困っている時に手伝うのが子供の役目だ。今まで大きくしてもらって、今日あるのは親のおかげだ。父親にここまで言われているんだから、一生懸命頑張って、お父さんの、親のために頑張ってきなさい」と主人が背中を押してくれたんです。
私は商売は全然する気がないんだけれども、そう言われてみるとそれもそうだな、今まで世話になってきた、役に立つことがあったらせないかんな、外食産業、食べ物屋のことは、大学時代に手伝いはしたけども実際に経営はしたことないし分からへんけれど、まあ父親が教えると言うんやし、行けば何とかなるんやろうと思いまして、店に行くことにしたんです。それで父親が、さあ何から教えてくれるんかなと思いましたが、それからすぐ父は大阪の店に行くどころか病気が悪化いたしまして、病院に入ってしまいました。そしてその次の27日に、「後のことはよろしゅう頼む」と言って亡くなってしまったんです。
何にも教えてもらわないままに、2代目の時代を迎えました。それが、昭和58年、1983年、今から25~26年前でございます。私には兄がおります。兄が社長でございます。そして、一応私が補佐役ということで、暫く経ってから専務という肩書きをもらいました。
でも何にも分かりませんから、これが世の中で言う「何にも専務」というやっちゃなあと、私は自分でそう思いました。どうしたらええんやって、社長の兄に聞きました。実は兄はそれまでは、丹後半島に父親が温泉を掘りまして、丹後半島の地域の発展のためにと言って自分のお金を何億も投げ打って温泉を掘って、そこで温泉旅館もしていたんです。そちらの方に行っておりました兄を連れ戻して社長にして、そして主婦の私が専務ということでございます。昔からいる従業員はそのまま、職人さんもずっとそのままでございました。
兄にどうしたらええんやと聞きますと、兄は、一応は外食産業のことを温泉に行く前から勉強をしていました。世の中が外食産業時代に変わって、チェーン店が出来るようになってという、そんな仕組みや色んなことを彼はすでに勉強しておりましたが、父親が絶対それ(チェーン展開)をしてはいけない、お前たちの手に負えるもんじゃないと、大反対をしておったんです。だからうちは、道頓堀の店一軒です。それが父の遺言みたいなもの、父の希望だったんです。チェーン店を持つことを許さなかったんでございます。
そして、兄と相談しましたら、兄がこう申しました。「道子、今の世の中はもう食べ物屋という時代と違う、外食産業という時代にもう入っとるんや。うちは遅れとる。道頓堀も見てみい、人があんまり来はらへんわ。くいだおれなんか、とっくの昔にもう皆から忘れられている存在やで」と兄が申しました。主婦だった私には、それがどういうことなのかも分かりませんでした。外食産業という言葉すら、どうでもええがなそんなもん、というくらいのつもりだったんです。
「それでどうしたらええんや」と申しますと、「今はな、外食産業にはコンサルタントの先生がいっぱいいてはんねん。そのコンサルタントの先生が色々と勉強させてくれはって、ああしたらいい、こうしたらいいとアドバイスもしてくれはんねん。その先生に相談して、どうしたらええかやってみようやないか」と兄が提案したんです。私は、そんな便利な人が世の中にはいてはんのやなとびっくりしました。「そらええな、その先生を呼んでうちはどうしたらいいか、もう一回一からやり直そうや」と、その頃、多少の埋蔵金があったようでございましたので、それをその先生に使うことにいたしました。一人の先生やったらあかんで、ええ先生を何人も呼んで、何人もの意見を聞かないかんで、と私はそのように申しました。兄もそれはそうや、一人の話はあかんわと、何人もの先生をお呼びいたしました。そしてスタッフの管理者を呼んで、その中に私も社長も入って、勉強会をいたしました。

コンサルタントの先生は、今の世の中はこんなんです、外食産業の仕組みはこんなんです、ああですこうですと、ええ話ばかりしてはります。次の先生を呼んでも、そういう話が次から次に出ております。そしてメニューはこんなんにしたらはやります、今年のメニューはこんなんにしたらはやりますと、いい話ばっかり聞かせて下さっておりました。その頃流行の話がもちろんでございます。だからそれはそれで当たり前のことでございます。だけど、外食産業が出来る前からある、古いくいだおれという総合食堂をどうしたらいい、その中にどのようにしてそう変えていったらいいのかということが、さっぱり分からないんです。一致しないんです、どこを見ても。具体的にどうしたらええんやと、聞けば聞くほどさっぱり分からへん。新しい店を作るんだったらその通りのものをすればいいだろう、だけど20年も30年も前からお客さまがいらして、地方からもお客さまがいらして、そしてこの道頓堀だけてやっていて、8階建てのビルもあって、この店をずっと引きずってお客さんが減った減ったって言っても、売り上げは少なくとも半分は残ってはるのにこれをどう変えて、急に外食産業はこうやからって(言われても)変えようがないやん。私の頭ではさっぱり分かりませんでした。「具体的に何をしたらええんでしょうか」と先生に聞きました。従業員も分からんて言いだしましたから、「先生具体的に何をしたらええんですか」と。メニューも変えるのは変えるけれども。先生は言われました。「くいだおれさんは、もうイメージが古いんです、流行遅れなんです。今の世の中、言うたら流行遅れが一番恥ずかしい時代でございます。皆さんは流行遅れというのが一番恥ずかしいと思っている」と、そんな時代だったんです。だから先生のおっしゃるのはその通りなんです、流行遅れなんですよ。流行遅れだから人が来ないで、はやらないんですよ。従業員も皆こない言います、「イメージが古いんですよ」。そら、昔からあるもんは古いがな。「イメージを変えなさい」。どうしてイメージなんか変えられるんやろう。悩むけども、分からないんです。「先生、イメージを変えるって、どうやって変えるんですか」と聞きますと、「何が古い言うても、おたくさんの店頭に昔からあるあのチンドン屋の人形、あれがイメージが古い、あれがあるだけでもイメージが流行遅れなんですよ」と全員の先生がおっしゃいました。従業員も皆そない言ってきました。「簡単にイメージを変えようと思ったらあの人形をどこかに撤去して、入り口を変えたら、まずは簡単に変えられますね」。そこまでおっしゃいました。兄貴と二人で、「そんなことはなぁ、あの人形はずっと引き継いできたもんや。そやからなぁ」と、なんぼ考えても決心がつきません。どうしたらええんかいなぁ、テレビで何かええことでも言うかいな、言うわけないやろけどなと、ある日テレビを観ておりました。そうすると、大阪発の全国区だったバラエティ番組をやっておりました。日本で一番のもの、ということで色んなものが出ておりました。例えば、「日本で一番有名な高いもの、富士山」、「知ってる知ってる、そやそや」というようなものでございます。今から22年から25年、少なくともそれくらい前の話でございますから、まだ福岡ドームは出ておりませんでした。残念でございますけども。まあ、日本で一番有名なものの色んな種類が出ておりました。それを見ながら、よそはええなぁ、日本で一番新しいものはこれか、ええなぁ、ええなぁとそればかり言いながら観ておりました。最後に出てきたのが、日本で一番流行遅れの泥臭いものでした。そんなものあるんかと思って観ておりましたら、くいだおれ人形が出てまいりました。兄貴と思わず、「二番よりええな」と申しました。
そう言われても、人形を手放す気にはなれませんでした。とりあえず置いておこう、その時はそれをどう使うとかいう考えは持ち合わせておりませんでした。皆から笑われて、くいだおれは泥臭い、流行遅れのナンバーワンだ。あの人形が泥臭いねん、流行遅れやねんと笑われていることも知っておりました。時には大阪の恥やと言われるようなことも知っておりました。それでも、だから手放す、ということは我々には出来ませんでした。どうしたらええんやろう、まあしゃあない、先生の言うこと聞かへんねんから、もう先生もいらんいうことやが。人形よう外さんから先生を外したらええがなと、先生を全部お断りしました。
その時、私たちは腹を決めました。私たちの店や、先生に「どうしたらええんですか」って聞いて、先生が「こうしたらどうですか」って言って、「ああそうですか、そうしましょう」、それでまた「先生、次はどうするんですか」、先生は「こうしましょう」、「ああそうですか」、そんでまた「先生どうしましょうか」。これだったら先生の店や。この店は自分たちの店だから、自分たちが父親から預かった店なんだから、自分たちが一生懸命考えて、自分たちなりのやり方をして、それで出来なかったら力がない、しゃあないやん。一生懸命したら親は、きっとそんでええと、お前らには荷が大きすぎたなぁと、父はそれで満足してくれると思う。とにかく自分たちで考えることだ。出来なかったら力がないからしゃあない。親に謝ったらええ、親はもう死んでおらへん、墓に謝ったらええんや、と腹を決めました。とにかく一生懸命自分達の思い通りにやってみようということでございました。
かと言って、一から何をしていいのか私にはさっぱり分かりません。気だけが焦ります。どないしたらええんやら、そうや、父親やったらこの私に何をせいと言ってくれたんやろかと思って一生懸命考えました。父親が、「道子、基本や。基本をしっかりやってみい、原点に戻ってやってみい。一から始めるんやろ」と言ったような気がいたしました。基本や、そうや、食べ物屋の基本というものを見付けて、それをきちっとしたらええねん。先生が言ってはったなぁ、食べ物屋の基本、料理のことを頻りに言うてはった。「メニューはどうのこうの」と。そうや、食べ物屋やから売るもんはメニュー、商品は料理や。それで、「内装がどうのこうのテーブルがどっち向いた」とか、それを提供する場所や。そして、「サービス業やからサービスがうんたらかんたら」。サービス、この3つが基本に違いないと思いました。
良かったこれが見付かった、これの悪いところを直していったらええねん。まずそこから始めたらええねん。私はもう希望が湧いてきたものですから、大喜びでまた店に行きまして、この3つの悪いところ悪いところ、何が悪いんやろう、どうなんやろうとずーっと探し求めて見て回りました。でも悲しいかな、主婦の私に何が良うて何が悪いかさっぱり基準線が分かりませんでした。家庭と営業とはもちろん違います。当たり前でございます、何故かと言うと利益が伴います。必要なんです。給料を払わないかんねん、職人さんがおるねん、ということは合理化もせないかんし、スピードが必要や、効率がどうの能率がどうの、利益率がどうのと、色々と出てくると、その基準線というものがええんか悪いんかが分からないんですよ。
例えば私はこの中華の職人に、私はこの赤い色をしたハムが嫌いやから、もっと上等なハムに、かえて使うてええのよ、と思わず言ったら、職人から「これ何ぼの原価で出来る思っとるねん、ドアホ!」と怒鳴られたりしたものでございます。「何にも知らん奴が偉そうに何言っとるんや、原価弾いて持ってきてみい!それの代わりに何を入れんねん」と言われたらもう私は分かりません。
何にも知らない私が、そんなこと言うたって誰も聞く耳持ちません。これは私が悪いと思いました。何でこんなことするんやろうと(私が)言うても、ギャーギャーと(言われます)。私は、ではどうしたらいいんやろうか。私には何の実績もないんやから、まず洗い場に入って洗い物をしながら考えました。そうや料理や、商品の勉強をしたらええねん。料理は職人さんを雇ってんねんから料理は職人がするねん、でも私ができるのは商品というものを勉強することやなと思いまして、ずっと色んな店を見て回りました。先生からは聞いてるけども、自分の目で実際に見て、そして食べて味わって、自分だけでは分からないから、仕入れのトップを連れてまいりまして、そしてよそのメニューを分析いたしました。色々とグラム数がどうかとか、切り方がどうか、盛り付けがどうか、何分で出てくるか、産地はどうか。「同じ白菜一つとってみても産地によって値段がちゃいますねんで」、「何でうちはピーマンはどこどこのピーマンを仕入れているの、何でしいたけは大分のを入れているの」、「それは産地がいいからでんがな」。「もっと安いのもあるんやろうが」と言ったら、「安いのは日持ちもせんし味も悪いがな」と、仕入れは仕入れなりの理由があるんです。「うちの社長はええもんを使えとずっと言い続けてきた。だからわしらは毎日中央市場に行って見定めてくるんや。職人はそれを高いとか何とか言うねん」と、持ち場持ち場によってそれぞれの考え方があるわけでございますけれど、そういうことをずっと勉強させてもらいました。
ではうちはどうしたらいいんやろうなと、また洗い物をしながらホールの人に相談しながらやっておりました。そしたら、ホールの人間が言ったんです。「なんぼ勉強しはったってな、うちは総合食堂だから、それが流行遅れやからあかんねん。はやらへんねん」というふうに言われたんです。それを聞いて私は、おかしいやないかと思ったんです。うちは総合食堂で20何年きているのに、それが生かされないということが私にとっては何とも言えず悔しい、おかしい、そんなはずない(という思いでした)。今は専門店がチェーン店を出している、そういう外食産業がはやっている、そんな時代なんや、だからかっこええんや。専門店時代やのに総合食堂なんかそんな古臭い流行遅れなもの、人が来ますかいな、「何でもありは」は「何でもなし」や。そういうふうに追い詰められたらそう思うんですね。
そういうことを聞いた時に私は燃えてきたんです。ちょっと待てよ、ここで、何で、おかしい。うちにしか出来んことがあるはずやが。専門店には専門店の良さがあるねんけど、総合には総合の良さが何かあるはず。専門店に出来んことが何かあるはずやろ。だから20何年も続いとったんやろ。それを生かす方法ってないんか。そう思って、必死で考えました。総合店で出来る、総合店と専門店の違いは何か。専門店は専門の職人さん、和食だったら和食の職人さんだけしか持ってはらへんねん、うちは和食も洋食も寿司も麺も、全て職人さんを持っていた。今のように冷凍食品がない時代でございますから、みんな職人さんがうどんを打ち、寿司を握り、しゃりを混ぜとしていました。こんだけ多く持ってるから総合やのに、一つしか持っていないとこは専門で、流行ですってはやっているのはおかしいやんか、と思った時に、総合の職人を生かす料理を考えたらいいんやないかと気が付きました。
私は専門の職人さんに、一つずつ、とにかく何でもええからメニューを一個出してもろうて、それを一食ということで盛り合わせで作ってみいひんか、そん中で格好ええ、欲しいようなものをまとめてみいひんかと提案したんです。その頃一番良く売れているのは何かというと、一階のファミリーレストランでは天麩羅うどんと、職人が作った、手巻きの入った盛り合わせ寿司、これが良く出てますと(従業員が)申しましたので、それだったらまずそれを一つの皿にドッキングさせようよ、小さい天麩羅うどんと、その盛り合わせ寿司を一つのお膳にして、それで出してみよう。ドッキングさすねん。洋食と寿司をドッキングさすねん。色んなものをとにかくドッキングさすねん。そして、出してみようやと提案しました。私があまり煩く言うものですから、「まあええわ、したるわ」と言って、(職人さんが)出してくれました。一番最初に出した、その天麩羅うどんと手巻きの入った盛り合わせ寿司は、綺麗な器で格好よく、胸がときめく、嬉しいなと女性が喜ぶような名前にしようと思いました。「大阪ロマン」という名前で出そうと言うと、職人がまた怒りました。「そんな舌噛むような名前出せるか、寿司うどんでええねん」。「そんな夢のない名前はやめてーな」と言いながら、(私は)その大阪ロマンを(メニューとして)出しました。それが何と当たりました。腹痛ちゃうんでっせ。売れたんです。そうすると職人や古い従業員が、うちにもヒットする商品があるんやと思って、やっぱり自分の店がはやってくると言うか、ヒットする数、200も300も出るものがあると、従業員としても嬉しいんです。「また次何ぞないか、姉ちゃんもっとないか」と(言い出しましたので)、「もっと皆で考えようや、とにかくドッキングしてみよう、ドッキングドッキング」と申しました。今で言う、「コラボ」というものでございますよね。その頃、「コラボ」という名前がないものですから、私はただ「ドッキングドッキング」とやりました。そして、うちしかないねんからうちらしい名前にして、そしてその器も女性が「あら、いいわね」と思うような、やっぱり目から見て喜ぶような、よそにないようなそんなメニュー、そんな商品にしよう。器にも私は凝りました。お金がないもんですから、それでも何とかして夢のあるような、よそにないような器を使おうと、ここには虫籠を使いましょう、ここではお造りには、造り皿は高いさかい、竹の筒にしましょうと、色んなものを探し求めて京都に行ったり神戸にいったり、大坂の器屋さんをずっと歩いて組み合わせをさせてもらって、そしてこれに乗せて、今度はこれに何とかしてくれへんかと言って職人さんに頼んで、料理を出していきました。 少しずつ(商品が)出てくると、やっぱり皆嬉しいから活気が出てまいりました。「よし姉ちゃん、応援したるで」と。
その頃は若いから「姉ちゃん」と呼ばれておりました。今は誰も言ってくれません、婆さんとしか言ってくれません。こうして少しずつ、皆の気持ちが一つになってきたんです。今度は厨房が困ったんですよ。怒ってきました。「もうこれ以上出来へんで」、「何でやねん」、「こんな古い台所で姉ちゃん、次から次に料理言うてくるけど、器買うてくるけど、棚はあらへんわ、洗いはしっちゃかめっちゃかになるわ、お前どないして整理して、デシャップもどうすんねん。寿司はこっちから取らないかんし、うどんはこっちからこんなんやし、ホールもこないなっとるがな。どないすんねん」食べ物屋はデシャップ(?)という、調理場からお客さまの所に持って行く、このセットする所って一番大変なんですよね。そこがすーっと行って、洗い場がすーっときて、調理場にすーっと行く、こういう構造でないと、裏方の段取りが上手く出来ないんです。私も洗い場をやっていますから、それが良く分かるんです。「ほな洗い場と調理場を直そうよ。ええ料理が、新しい料理が出来るように直そう、直すからまた次頑張ってーな」と職人に言うと、「直してくれるんやったええで。で、誰が直すんねん」、「いや、職人さんが考えてくれな、私は分からへんがな」、「わしはアホやから職人やっとんやろ、姉ちゃん」、「威張らんでもええがな」、「せやから、そんなもん姉ちゃんが言い出しっぺや、考え!」私はもっと分からへんのにから。でも何とかしようと、新しい料理が出したいがために一生懸命、また伝手を頼ってよその調理場を見せてもらったり、新しいファミレスの食堂の調理場を見せてもろうたり、本を買うてきて読んだりしたんですけど、自分が料理するわけではないですから分かりません。
一々調理人に「こんなんはあかんの、こんなんはあかんの」とやっていましたら、「しゃあないな、手伝ったるわ」と言って、一緒になって考えてくれるようになったんです。こうして、「これでいこう、洗い場はこのようにすると段取りがいい。こう洗い物が流れて、ここに棚を置いてこうして、よしいける」というふうに計画いたしておりましたら、今度はホールの人がそれを聞いて、「何言うてまんねん。裏方ばっかり良うしたって表がボロボロでんがな、表を直してくれんかったらお客さん来まへんで」そらそうやな、まず表が大事やな。でも表は誰が直すねん。恐いなあ、どないしたらええんやろということになったんです。それで私は、「よし分かった、私が改装してみせる。全館古うなっとんねん。20何年も経っとんねん。全館私が改装してみせるから、皆また一緒にやってくれるか」と皆に頼みました。「姉ちゃんがやってくれるんやったら、頑張るで」とまた皆がこのように応援してくれたんです。
と言うたって私は釘一本打てるわけではないし、図面が見れるわけでもないんです。どないしたらええんやろ、店も休まれへんしと思い、またよその店をまず見にいきました。(コンサルタントの)先生が、あの店がはやっとるなあと言うてはった、今はこんなんが流行やな言うてはった(店)。まずはそれを実際に見よう。色んな店を見に回りました。必ずメジャーを持って回りました。施工する大工さんが図面を持ってこられて、こんなのはいかがでしょうかと言われても、45cmが、どんな棚が入るのか、お客さまのテーブルが80cmがいいのか、75cmでいいのか90cmいるのか、それは我々が出す商品によって違います。そして、この通路一つにしても80cmなきゃいかんのか、90cmいるのか、それは使う者しか分かりません。図面に書いてあるのは、80cmがどんなもんで、90cmがどんなもんで、45cmがどんなもんで、そしてこの内装がどんだけあって、これが自分で分からなかったら、図面がええか悪いかも分からないんです。だから、自分でメジャーをずっと持って歩いて、それを身体で体感できるようにしました。時には、大工さんが持ってきた図面の実寸大を屋上に上がって線を引いて、その実寸大の中で自分が歩き回って、お盆持って回れる、よし、これでいいとか、そういうことを実際にやったものでございます。
紙で自分で製図をしようと思ったら、大きな紙がいるんですよ。何故かと言うと、実寸ですから。「姉ちゃんアホちゃうか、こんなもんはな、縮尺定規ちゅうもんが世の中にはあるんや」と、大工さんが縮尺定規を私に一本くれました。それは生まれて初めての縮尺定規でございました。500分の1、200分の1、100分の1という三角のあれを今でも宝物にしているんですけど、それを引きながら、本当に一からそんなことを始めました。 一年にワンフロアずつ直していけば、店を休まなくてもいい。そしたらお金もそんだけで済むと私は計画を立てまして、一年にワンフロアずつ、そのフロアの直したいなと思う所を一年かかって研究して、そこで働いて、お客さんの流れを見て、調理場の流れを見て、そして動きを見て、各フロアとも古い店でございますけれど、皆全然違うんです。エレベーターがある所やら、エスカレーターしかない所やら、皆違うんです。だからそれを自分で実際に体感して、動いて回って、お客さんの流れを見て、よそを見に行って、そんな中で考えたんです。10年もかかってやっと(全フロア)一周する。10年目はまた1階は古うなっとるわと。そんな改装ばっかしてられへん、お金もあらへんやろうしな。
それで、結論としては、流行の先端を行く必要はない、後のメンテナンスと言うか、清潔で明るくてお客さまが気分を害されなくて、従業員が働きやすい、それが一番大切やないかなと考えました。私の店に関しては、ということです。蕎麦屋さんだったら、蕎麦屋さんらしい水車が回っていたり、という雰囲気というものが大切なんですけれど、うちは総合でございますから、蕎麦だけ出すわけじゃない。1階なんか洋食も出てくるのに、洋食屋でもなし蕎麦屋でもなしうどん屋でもなし寿司屋でもなしと、どんなデザインをしたらいいのか分からない。それで、ファミリーレストランというものはそういうふうに、とにかく清潔感があって明るくて、そして居心地が良くって、働きやすくてと、そういうのが一番大切ではないか、デザイン性ではないなと気が付いたんです。
必死になってやりましたら、従業員がまた、「姉ちゃんアホちゃうか、何にも分からんのに自分でこないして、製図一つ引かれへんのにから、何考えとんのやろか」と笑っておりました。それは知っておりましたが、私はこう思ったんです。さっきのコンサルタントの話しじゃないけれども、立派な、有名な先生に大枚を叩いて、この店をお願いします、改装して下さいと言って、流行の先端を行くような(店に)パーンとしていただいて、それでもしはやらんかったら、その先生がお金を返してくれますか。「ああ、はやりませんでしたね」と言ってお金を返してくれるか。返してくれません。お宅の使い方が悪いだけやと言われるだけでございます。借金をするのは私。私が分からなかったら、ええか悪いか分からんようなことでは、判子の一つも押されへん。だから私は勉強するんやと思って、一生懸命そのフロアごとに勉強して、やってまいりました。
でも、いくら勉強しても、いくら研究しても、いくらよそを見に行っても、いつもいつも商品にしても器にしても、テーブル一つにしても内装の壁紙一つにしても電気一つにしても、悩むんです。ずっと悩みました。第一、総額を何千万か、5000万ですか、8000万ですかと言われても、悩むんです。いや、もうちょっと踏ん張って一億にしますかと言われても、悩みました。どないしたらええんやろ、なんぼ勉強したって研究したって答えは出てけえへん。私はやっぱり主婦しかでけへんのや。こんな大きなことは私にはでけへんのや。無理なんや、所詮無理なんや、と思いながら悲しい気持ちになって、でも答えを出さないかんし、どないしたらええんやろ、どないしたらええんやろと、眠れん日が何日も何日も続きました。悩んでばっかりおりました。自分は駄目な人間やのになと思いました。
でもそんな時に、散々悩むとええ答えが見付かりました。それは、何故私が悩むか、ということに気が付いたんです。私が悩むのは、私がお客さんを知らんから悩むんだと思ったんです。正解、答えはうちに来て下さるお客さんの心の中にある。「この料理、変わって良かったねえ、味ええよ。この値段だったらまた来てええよ」と思って下さったらお客さんはリピーターになって来て下さる、お友達にも紹介して下さる。「この内装、明るいしええやん。別に流行と違うてもええやん、何か知らんけど、雰囲気えんやん」とおっしゃったら、もう一回お客さまが来て下さる。お金を払って下さるんは私じゃない、お客さんやないか。そのお客さんのことを分からへん、お客さんの心を知らん私やから悩むんやと、気が付いたんです。
うちのお客さん今、どんなことを思ってはるんやろ。第一どんなお客さんが来て下さっているんやろ。これから店を改装していくのに、うちを経営していくのに、どっち向いて行ったら、何を目標に、どんなお客さまを目標にしていったらええんやろ。お客さま言ったって幅広いです。高級料亭もあれば、暖簾をくぐって入る、俗に言う飯屋っていうのもあれば、色々ある。お客さまも色々ある。大阪の方もあれば、全国の方もいてはる。今現在のお客さんはどういう方がいらしてて、これからどんな店にしたらええんやろうかなと、やっとそこでうちの原点というものを考えなきゃいかんと気が付いたんです。
従業員にまた、今どんなお客さんがいてはって、今どないなってると思う、どんなお客さんがいるんやろうと、いうようなことをミーティングしながら、自分も働きながら、考えてみました。古い従業員が言いました。「くいだおれは昔から、地方の、全国のお客さんがよう来てくれてはる。でも古い店やから流行遅れや言うて、大阪の人が来てくれはらへん。笑いはんねん。それが悔しいです」とある従業員がいいました。それを聞いて私はハッと思ったんです。それなら、今現在来て下さっているお客さんを大事にしてるのか。地方のお客さん、大阪の人と違うから言うて、ええかげんに扱うてへんか。大事にしてるか。うちは万博の頃から、父親は日本国中の方に来てもらえるような店にするんや言うてはったから、これは大事なお客さんなんや。だから、流行の店でないからと、従業員がそんな気持ちでおったらあかん。まず、このお客さんを、今来て下さっているお客さんを大切にして、更に日本国中のお客さんを増やすことや。二倍にも三倍にも増やすこと。うちが賑やかになったら、店の前が賑やかになる。店の前が賑やかになったら道頓堀が賑やかになる。この衰退している道頓堀を賑やかにするためには、まず自分のところから始めないかんねん。
これからは芝居でもない、映画でもあらへんのやったら、観光やねんと私は思ったので、従業員に「これからは観光やねん。道頓堀も観光のお客さんやんねん。全国のお客さんがせっかくうちに来てくれてはんねんからもっと増やさないかんねん。もっと大事にせないかんねん。そのためにはどうしたらいいんか。うちにしかないことや。大阪らしいことや。大阪らしい店や」、「ほんなら、大阪の人はどないしますの。大阪の人なんか大阪らしい店なんか来まへんで」、「それもそうかもしらん。でも違う。大阪の人にとってはここはスタート点、心の故郷や。変えなくてもええねん、清潔にしていいものを出して丁寧に扱う、その基本さえ守っていれば必ず帰ってきはる。何故なら、道頓堀は大阪人の故郷やねんから。二本立てや」。私は思いました。これこそ、地域の発展に尽くしますという(会社のモットー)、それをうちが実際にそれをやらないかんねん。父親は道頓堀を賑やかにするためにここに食べ物屋をやったんやないか。それやねんと思ったんです。
そして、大阪の人にもし笑われてもかまへんから、地方の人が喜びはるようなメニューというものを考えよう。でもそればっかりだったら流行遅れやてまた言われたら腹が立つやろうから、大阪の人も「ほおー、こんなもんやっとるんか」と言う、そんなメニューも考えよう。両方、二本立てでいこう。だから職人さんは、ええ職人しか私は使わへんと思ったんです。うちしかないもん、何ぞないやろかと考えたときに、うちしかないもんが一つあった。店頭の人形や。あれは、くいだおれに一つしかない。世間に流行遅れやどうのこうのと言われているけど、あれはうちしかあらへんねん。あの人形は、きっとうちの宝や。あの人形に楽しいパフォーマンスをさせて、皆にまたもう一回、「ああ、楽しい店があるなあ」、「あの人形おったやん」というふうに、大阪一の有名人に仕立ててやりたい。皆に笑われるんやのうで可愛がられるようなそんな人形にしてやりたい。それが我々の仕事や。そうしたらきっと、また皆さんが集まってくれはると、私はその時やっと、人形というものに心が行ったんです。
人形を大事にせないかんかったんやなと、人形の顔を見まして、きっとあんたを大阪一の有名人にしようと思ったら、えらい顔が汚れとるな。拭かないかんがな。洋服もちょっと薄汚れてるわ、着替えさせないかんがな。我々オーナーの気持ち、それから従業員全体が、この皆から笑われているということに恥ずかしいと思っていたんです。誇りを持っていなかった。埃が掛かっとったんや。それが間違いや。この人形はうちにしかない大切な宝やから、これを大切にしなかったらあかんねん。この人形に私たちが流行遅れだと笑われても何してもいい、誇りを持たないかんのやということに気が付いたんです。
私は主婦をしておりましたので洋裁もできます、そこで慌てて(人形の)洋服をもう一回見ました。この色はちょっと今風じゃないなと思いました。デザインは変えておりませんが、色目をもう一回見直しまして、赤の色はこの色、白はこれ、生地はこの色、ブルーはもうちょっと濃いブルーというふうにして、もう一回私は洋服のリフォームというかデザインを見直しました。そしてメーカーを変えまして、一月に一回まっさらな服を着せてやってくれ、絶対汚してはいかん、顔は毎日丁寧に拭いてやってくれ、これはうちの宝なんだからというふうにして、人形を大切に扱うようにしました。誰から見られても笑われないように、いい服を着せてやろう。まっさらな服やで。あの服、使い捨てなんですよ。使い捨てと言うとおかしいけれど、クリーニングをしないんです。まず月に一回替えてみなさいと、最初の何年間は、毎月替えました。えらい高うついてるんですよ、別誂えの服でございますから、まだちっとお金があったから良かったけれど、そのうち二月もつなと思って、二月に変えました。それでもピカピカでございます。その様子が分からないから、それくらい大切にしなさいというつもりで私は、自分が気が付かなかったらいかんので、「洋服もいっぱい作ったから、いつも5着か10着は予備があるから、担当の人は服を、ちゃんと月に一回替えなさい、替えたらマークしなさい、報告書を持ってきなさい」と、私はそこまでしたわけでございます。
こうして我々の気持ちが人形にいきますと、人形に対して風が吹いてくるのをキャッチできるようになった、つまりチャンスが現れたんです。阪神タイガースが昭和60年に優勝した時は、カーネル・サンダースさんが例によって道頓堀に放り投げられた。平成4年の時は、今度はくいだおれの人形やぞという噂が、その年の6月から流れたんです。くいだおれの社長もここぞとばかりに、「何ぞおもろいことをやって世間をアッと言わせたらええやないか」と言って、もしあの人形をドボンとしたらあの人形泳げるやろうか、ちょっと泳がしてみいやとか言い出したので、予備の人形を大阪湾に連れていって練習したら、係が「社長、どないしても沈みまんねん、泳ぎまへん」。そりゃそうやな。商売そっちのけでそんなことばっかりしておりましたから、私たちは、もうそんな突拍子もないことはしなくていい、これからも大切ことなんだから、そんな奇を衒うようなこと私は嫌いやから、自然のままで何とか考えよう。人形はどう思ってるんやろうかな、人形の気持ちになったら、人形は「わて泳げまへん」て言いました。泳がれへんねんから、「泳げまへんねん」て書いて貼っといたらええやんと提案したんです。そうしたら、せめて浮き袋くらいて言うから、ああ浮き袋は可愛いくてええなあと、秋やのに浮き袋ということで、従業員の子供さんの浮き袋を借りて、その浮き袋を着けて、そして漫画の吹き出しのように、大阪の男やねんから大阪弁で、「わて、およげまへんねん」て書いて貼ったんです。そしたら次の日に大阪の人が、「洒落の分かる人間やな、あの店おもろいことやりよるがな」ということになって、新聞取材がワーっと(来ました)。命乞いしてるでってそんな話も出ました。実はあれにはシリーズがありまして、もしほんまに「泳げまへんねん」言うて、それでもまだ放り投げられた時はどうするか、その次はどうするかと、3部ほど続きを作って、最後は「Wanted」、つまり「探して下さい」というのを出そうというとこまで、シリーズで考えてたんですけど、残念ながら阪神タイガースが優勝しませんでした。リーグ優勝すらしなかったんです。そしてあの人形はそのまま、続きは世には出なかったんですけども、そういうことを、つまり私が最初に申しました、物語性というものを大切にしてきたんです。

するとそれからでございます。大阪で何かある度に、あの人形どない言うやろとか、今度はどんなことを言うてくれるんやろうかとか、いうふうに逆に問い合わせがあったり見に来られたりしまして、そしていつの間にか、それが名物吹き出しになったんです。何かあるとこれが出てくるということになりまして、メディアは賑やかにして下さるようになりました。それは色々と努力もいたしたんでございます。人形が有名になって新聞に載るようになって、皆が見に来るようになって、内装は綺麗になって料理は良うなったら、はやらんわけがございません。いつの間にか道頓堀がまた賑やかになりまして、くいだおれの前は(人で)いっぱいになりまして、くいだおれの店もようはやりました。
15年くらい前は本当に、お陰様でようはやって、同じ同業者の方に、「くいだおれさんはええな、店の前に金の生る木が立っとるもんな」とすら言われました。人形のことのようでございます。でも皆さん、今聞かれましたように、金の生る木なんて世の中にはございません。もしそれがあっても、それを大切に大切に枯れんように守って育てて、そしてそれを大切にメンテナンスと言うとおかしいですが、心をそこに持って行かないと、そんなもんはあっという間に、1、2年でなくなってしまうものだと私は思っております。そういうことで、15年くらい前に、私のようけ借りた借金も返せるくらい賑やかになりました。
そんな時に内装工事、エレベーターもエスカレーターも全部古くなりまして、全部替えました。一つ一つ、私は研究しました。そしてその業者さんととことん相談して、話をして、私の意見を言って、そして使えるものはとことん使いました。業者さんが今はこういうバブルの時代だからパーッと替えた方がいいですよと言われても私は、それはしませんでした。使えるものは使って下さい、これはどうなるんですか、値段はどうなるんですかと、とことん納得した上で、そしたら例えば、「エレベーターの枠は流行遅れでも構いません。いい合金を使っているんですから、磨けば磨くほど重みがあるんですから、大切にしますから、だからこれは磨いてもう一回使います。中のカゴだけを替えて下さい」と言いました。工事費も安うつくし、別誂えだって言うても、全部を替えるよりは(安いいです)。期間も短うて済みました。
極め付きは店頭のネオンです。あれはもう古うなりました。あんな流行遅れな、泥臭いダサイ、パチンコ屋のネオンみたいなと、皆に笑われていたネオンです。古くなった時は私も嬉しくなって、新しいのに替えられる、今の流行のにできると、散々研究いたしました。大阪中のネオンを撮って歩きました。それでも気に入らない、東京の銀座に行って、夜な夜なネオンを撮って歩きました。それでも気に入らない、見付からない、どんなのがええんやろうと色々と、5つくらい大手さんが持ってきてくれはったのも気に入りませんでした。どうしたらええんやろうと、とうとう私はラスベガスまで行きました。パスポートサイズのこういうの(カメラ?)を持って。そこでやっと決心しました。ラスベガスのネオンはネオンの洪水でございます。あれを見た瞬間に思いました。この何十億か何百億か知らないけれども、これほど人を圧倒するようなものが世の中にあるというのに、たった8000万やそこらをかけて、看板を替えてみたって、何の意味もない。それより、今までからずっと道頓堀にこれがあったと皆さんに親しまれているこの古臭いネオン、これの方がよっぽど値打ちがある、つまり歴史という値打ちがあると私は思いまして、そしてこのネオンを徹底的に直してちょうだいと言いました。半額以下で済みました。だから、あのネオンはずっと、昭和の45年から最後まであのネオンでございました。それぐらい納得するまで、私なりに勉強いたしましたんです。
そして15年くらい前に、今度はサービス、(大事な項目の)最後のサービスというものに関して勉強したくて、座敷部という所に一から入門しました。4階から8階までの5つのフロアで、昔ながらの日本料理をやっております。一見さんもOK、宴会もOK、団体さんもOK。そこは色んな方がご予約や飛び込みやらでお越しいただく日本料理専門店でございます。料理屋さんに近いようなことをしております。仲居さんも置いてございます。名物はすき焼きでございます。すき焼きも昔ながらに仲居さんがこうして、焼くんです。割下を使う、そんなやり方じゃないんです。仲居さんが自分で焼くという、そこまで手をかけたものを徹底して、最初からそうだったか(は分かりませんが)、60年の間やったやり方で最後までそのやり方で通しました。だから人件費がかかるんですよね。大変でございました。そういうフロアで私は勉強がしたかった。それは何故かと申しますと、「サービスって何やねん」て若い今どきの人に聞きますと、外食産業のサービスとは、マニュアルがあるから、マニュアルをしっかり決めて、マニュアル通りにさせないとだめです、というのが外食産業で一時はやったんです、この間まで。私はそれを見て、それが気に入らんかったんです。そんな一方的なのはおかしいと、その時は思いました。でも自分が実際にやっていないから、それはおかしいと思いながらも、「半分おかしい」とくらいしかよう言わんかった。だから自分で実際にやってみて、そして本当に日本料理でもマニュアルでいけるのやろうかということを研究したくて入ったわけでございます。
外食産業は、あのマニュアル徹底が駄目にしたというようなことも聞いております。つまり、一方的だと。あれは基本の基本であって、プラスアルファは絶対に必要だ。その時その時に応じて臨機応変という日本のいい言葉があるのにから、マニュアル徹底主義というのをしたがために、サービスが低下したんやという反省を最近されているようでございます。私は、それは置いておいて、自分で実際にやってみようと思って、そして本当のマニュアルが日本料理でも見付かるんやろうかと思って、入ってまいりました。
昔からいるベテランの仲居さんの後ろに付いて、一から勉強しました。料理を運ぶところから、お酌をするところから、ずっとやってまいりました。ベテランの仲居さんと、そして新米の仲居さんとでは、部屋の雰囲気が違う。どこが違うんやろう、何故違うんやろうと思ったんです。マニュアル通りそれこそやっているはずやのに、雰囲気が違う。それは何かと言えば、お客さんとのコミュニケーションでございます。新米の仲居さんには、その通りにやっていても、コミュニケーションというものを間にとるほどのゆとりがございません。ベテランの仲居さんは、それは当たり前にやって、更にコミュニケーションをとり、お客さん同士の会話が途絶えたら合いの手をひとつ入れることによって、その場がもう一回花咲きます。お客さん同士が話ができやすいように、どうすればその会がスムーズにできるのかということを、つまり幹事さんに成り代わって、バックで応援するような、心遣いというものが日本のいいおもてなしだと思うんです。これはあくまで、人と人とのコミュニケーションなんです、私もそういうことに気が付きました。会話という一つの大きなコミュニケーションをとれるものがあるのに、それを出来る人が少ない。ベテランにならないとそれは出来ません。何故かと言うと、余計なことは言ってはいけませんけども、言わなきゃいけないことは言ってあげなきゃいけないという、これが、どこが余計でどこが余計じゃないかということは、これはその場その場でみんな違うんです。だから、マニュアル通りにはいかないんです。特にあの日本料理の場面には、そういうことが多いと思います。つまり、お客さまによって、もてなし方が違う。区別するんじゃないんです。差別するんじゃないんです。そのお客さまの理想と思ってらしているものを感じ取って、それに合わせてこちらが応対する、それが本当の真心のサービスだと私は思ったんです。
そこまで行き着くのに、やはり色々と勉強しました。全国からお客さまが来ていただくためには、その相手のことを知らなきゃいけないと思い、全国のことを勉強させていただきました。北海道はどういう地方で、どういう人がいて、どういうことがあって、どういう物が有名で、そして青森があって、福島があって、九州があって、日本地理から勉強しましたし、大阪のお客さまには大阪の大阪らしいものにこういうことがあって、そして歴史がこうなっとって、これがこうなっとって(というお話しをします)。
芝居のお客さんには芝居の話が少しでも理解できるように、芝居の勉強もせないかん。歌舞伎座の前に行って、そして歌舞伎座の役者の名前を覚えて、ああこんな役をしてはんねんな(と勉強して)、歌舞伎を観に来はったお客さんがもしお越しになったら、「仁左衛門さんのこれが良かったですか?」って一言声をかけることによって、「そうなのよ、あなた」と大阪のおばちゃんが花開くじゃないか。その糸口というものを、私達が見付ける、これも大切なことやないか。
会話の糸口、お客さまと心と心が通い合うようにコミュニケーションがとれるためには、一つのきっかけ、糸口というものも大切なことや。それは何やろうか。黙っている方がいいって顔に書いてあるお客さんには黙っとかないかんねん。これは誰が決めんねん。自分が勘で決めなしゃあないやんということで、こんなことをマニュアルに決めて書いたら人がアホかと言うような(ことですが)、これは経験ですが、実際にやらないと見付からないことやというふうに私は思っております。仲居さんにはよく申しました。とにかく親切にしてあげて下さい、お客さまにとって親切にしてあげて下さい。どうしようかなと迷った時は、お客さんが得するように考えて下さい。いつもそれを申しました。
うちが得したらいかんのです、お客さんが得するように考えたら、それがきっと正解だと思いますよというふうに、極端な言葉で言えば、教える時はそのように申しました。ミーティングをして、料理説明会をして、料理のメニューをお教えして、これはここがポイントだから、だけど偉そうに言うたらいけませんよ、聞かれたら答えなさいよ、出しゃばるな、引きすぎるなと、こんなもんマニュアルで書けないんです、この線というのは。あくまで人間の勘の積み重なりだと私は思います。と言うても、教えないといけませんので、だから、お客さまは神様ですって言うけども、はっきりありがとうございますと言わないと、お客さまには聞こえませんよとか、嬉しかったらあなたが笑顔で接しないと、お客さまは嬉しくないですよとか、一つ一つそういうことを紙に書いて、ミーティングをいたしておりました。
結論的に申しまして、私はこう思うんです。大勢の方をおもてなししようと思ったら、おもてなしをするに相応しい人間にならないと、色んな方をおもてなしできない。色んな方がいらっしゃいますから、だからその人その人に合ったおもてなしが出来るようにしないといけないなと、それが私のおもてなし術、それも作ったおもてなしじゃないです。自然に出てくるようにする、それは自分を磨くしか手がないんじゃないかなと私は思っております。
時間が段々押してまいりました。まとめさせていただきます。おもてなしということが、ちょっと時間が少のうなりまして申し訳ございませんが、このレジュメに書いてあります。イ、ロのところまではもう行きました。ハも、商売は面白いもんでございますけれど、難しいもんでございます。ここに(書いている)、「基本は原点に戻る、商いは牛の涎や」。これは父親がいつも言っていたんです。ある時質問がございました、「牛の涎って何ですか」と。「切れそうで切れない、あの粘りが大切やで」と、父は教えてくれました。
そしてもう一つ父が私に教えてくれましたのは、「笑顔が大切やで、あの人形を見習え、どんなことがあっても笑顔でお客さまをお迎えしておるよ、人間は大体文句を言いすぎる。暑けりゃ暑い、寒けりゃ寒い、忙しかったらああ忙しい。なら暇やったらええんかと言えば、暇やーと文句ばっかり言う。人形は文句は言わんぞ。あの人形を見習えよ」と父はよく言うておりました。それが大阪人の商いのやり方かなと私は思っております。
そして、最後にまとめなきゃいけません。商いというもの、私は店はやめましたけども、今現在でも、商いの原点はおもてなしの心だと思っております。人様に喜んでもらう、お役に立つから私達はお金を頂けるんだ、そのように考えております。
よく、そういったおもてなしの極意って何ですかと聞かれます。極意は、さっき申しました通り、自分を磨くことかなと思います。その前に、相手の立場に立てること、相手の立場に立って、物事を考えられること、ということは、相手の理解をする、理解をしなかったら相手の立場に立てません。だから相手を、今目の前にいらっしゃる相手を理解することから始まる。多くのことを理解しようと思ったら、自分を磨かなかったら自分が勉強して研究して、色んなこと、色んな考えがあるんやなということを知らなかったら、その理解ができない、一方的な思いになってしまうんじゃないかなと思います。相手を理解することからおもてなしというのは始まるんじゃないかな、それが極意じゃないかなと思っております。自然体でお迎えしたいものだとも思っております。
そして、クレームというものがあります。これはお客さまからのプレゼントでございます。だから、丁寧に丁寧に扱っていると、そこから新しいヒントが見付かってまいります。
3番目によく、アイディアというのはどこから出るんですかと聞かれますけど、アイディアというのは現場からしか出ません。架空のもの、想像のものではない、突然に出てくるものではないと私は思っております。現場第一主義、何か壁にぶち当たって、これを何とかしたいな、どないしたらええんやろかな、例えばお客さんを怒らしてしもうたけど、どうしたらええんかなと思った時に、どうして謝ろうかなと、ここからでもアイディアというのは出てくるんでございます。とにかく自分が壁にぶち当たった時に、これを何とか乗り越えたい、何とかしたいと思ったときに、アイディアが出てくる。これは知恵でございます。知識がなかったら知恵も出ませんけど、知識持っとったって、使わないと知恵にもなりません。だから色んな人のことを聞いて、色んなことを勉強して、それを知識として、それを使ったら知恵、自分だけの知恵になって、そしてそれが新たなアイディアとして生まれてくるんじゃないでしょうか。だからこそ、現場でございます。現場に私はアイディアが見付かるもんだと思っております。
世の中がどんどん変わってまいりますと、経営というものに対して革新、変えていかない、そんな時もあると思います。そんな時に、どっちがええんやろなと迷います。まあ先のことを考えたら、社会性のあることが続くことだと思います。その時だけ乗り越えてしまっても、それがひょっとしたら切れてしまうかもしれない。社会性があれば、それで我慢してやっていけば続くという歴史というものになって、いつかきっと花開くこともあるんじゃないかと思います。もちろん、もうどうしようもなかったら、その時その時、というのも大切なんですよ。だけど、どちらがと言われたら、社会性というのは大切なこと、一つの大きなキーワードだと思っております。
そして最後に、いつの世も変わらないことはやっぱり人の気持ち、人間の心、相手を思いやる心、感謝の気持ちだと思っております。私はお客さんがいなかった、売り上げが少なかったことから(店に)入りましたし知っておりますから、だからこそ、今でもお客さまが来ていただいた時のあの嬉しさ、有難さは忘れることができません。その気持ちを最後まで、私はずっと持ち続けたいなと思います。商売をしていなくても、それはずっとあの有難かったことを持ち続けたいな、忘れてはいけないと思っているわけでございます。
父親が残してくれました仕事のおかげで、私には財産はお金ではなくて仕事でしたが、この仕事があったおかげで、大勢の方に出会って多くのことを経験させていただいて、そして幸せな苦しみがあって悲しみがあって、そういうことがあったから、それが達成した時に喜びに変わり、幸せに変わってきた。人生というのは、こういうもんだよと父親が私にきっと教えたかったんだろうと私は思って、父に感謝してるわけでございます。
そして、60年の長い間、多くの皆さまに愛されて、そして応援していただいて続けさせていただきました。皆様方、今日ここにいらっしゃいます福岡の皆様方に、長い間くいだおれが続けてこられましたことも心から御礼申し上げまして、私の話を終わらせていただきます。本当に、今日もありがとうございました。
司会
ご講演ありがとうございました。それではここで質疑応答に移らせていただきます。ご質問のある方、いらっしゃいますでしょうか、挙手をお願いいたします。よろしいでしょうか。
質問者
今日は本当にありがとうございました。感動しました。会長さんのお話は本当に感動しましたし、私達の年代までは、色々と今のお話でずっと理解もできていいんですけど、先程もちょっと触れられたんですけれど、今の若い人、マニュアルでしか動けない人、その人たちにやはり本当にお客様をもてなす、おもてなしの心とか、そういうのが分かっていただくと言うか、理解してもらって、本当にお店全体で「いらっしゃいませ」って言えるようになるのは、やっぱり同じことを叩き込んで、ずっと同じことを教えていくしかないんでしょうか。
柿木
私はそう思います。まず先輩が示さないといけないし、トップが示さないといけないと思っております。若い人にああだと言っても、経験がないことは分かりませんので、やはりそれは、コツコツと知ってる人が、その気持ちを、精神を、やっぱり叩き込むって言ったら変ですけど、お教えしないと、自分が身を持って教えないと、それは分かってくれないと思います。そして今の若い方はどうしてもコンピューターとかに慣れていらっしゃいます。コンピューターの数字ばっかり言い張りますけれど、私は古い人間ですから、「コンピューターの数字も人間が入れてるから間違いかもしらんぞ、勘ピューターの数字とコンピューターの数字が一つになったら間違いないんだで」と言うんです。だから古いけれども、勘ピューターっていうのは大切なのよと。どうしても数字だけだと、あれは間違えますよ。天気予報だって数字だけ見て当たってたって間違えますもん。業者さんの方が合うてる時があるんですよ。数字は大切ですよ。コンピューターでしか出来ないことはいっぱいありますし、今頃コンピューター使えなかったらアホか言われますけども、だけど、でも自然のものとか人間の気持ちは、ロボットじゃないんだから、やっぱり人間の気持ちと自然とは、今の世の中は心で教えるしかないと思っております。
添付資料(印刷用にご利用ください)
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- 20090909resume.pdf (95.9 KB)
講師:柿木 道子(かきのき みちこ)
株式会社くいだおれ代表取締役会長
1949年、父・山田六郎氏が大阪道頓堀に「大阪名物くいだおれ」を創業。 63年、神戸甲南大学を卒業と同時に「くいだおれ」に入社。1年間の勤務後、結婚退社し専業主婦となるが、83年、父親の強い希望により同社復職。以来、専務として実兄社長と経営全般をこなしながら、女将として接客に力を注ぐ。2004年、代表取締役会長に就任。また、先代が大勢の人々に親しまれるようなシンボルがほしいと考案した看板人形「くいだおれ太郎」は、大阪一の名物有名人となり、全国から観光客が押し寄せるほどの大阪観光の名所となる。08年7月8日、時代の波にはあらがえず、惜しまれながらも「くいだおれ」を閉店。- 日時・場所
2009年9月9日(水)
14:00~16:00福岡商工会議所 502号室
博多区博多駅前2-9-28
TEL 092-441-2161















